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2013.12.22「あなたこそ神の宝箱」

 クリスマスおめでとうございます。豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
今週の週報はこちらです。

聖書箇所 ルカの福音書2章1-7節
 1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。


 クリスマスおめでとうございます。クリスマスになると、一つの物語を思い出します。ご存じの方もおられるかもしれませんが、「三本の木」という物語です。昔々ある所に、三本の木が立っていました。時間が限られておりますので、一本目のオリーブの木だけ紹介します。オリーブの木には大きな夢がありました。いつか世界一の宝物をしまう宝箱になること。宝石が幾つもちりばめられた木箱になることを夢見ながら、オリーブの木は成長していきました。やがて人々はこの木に気づき、木こりが斧を持って近づいてきました。オリーブの木はこう思いました。この太い幹、つやつやとした皮を見てくれよ。世界一の宝箱にふさわしいだろう?しかし彼の夢は無残に打ち砕かれました。彼は宝箱にではなく、家畜のエサ箱にされてしまったのです。
 オリーブの木、いや元オリーブの木は、どこかの村のどこかの馬小屋で、家畜のエサ箱として長い長い時間を過ごしました。そのうちにかつて自分が世界一の宝箱になるという夢を持っていたということも忘れてしまいました。むしろそれを思い出すと、恥ずかしさと情けなさで心が一杯になりました。ある晩、この家畜小屋に一組の夫婦がやってきました。女性のほうは苦しそうに息を吐き、男性のほうはそれを心配そうに見つめています。赤ん坊が生まれそうなのです。そして突然、赤ん坊の叫び声が家畜小屋に響き渡りました。赤ん坊はオリーブのエサ箱、つまり飼い葉桶の上に寝かされました。もうおわかりですね。イエス・キリストが二千年前に生まれた時に寝かされた飼い葉桶です。そのときオリーブの木はようやく気づきました。神様が、自分を確かに世界一の宝箱にしてくださっていたことを。すべての人間を罪から救ってくださる救い主、この世のすべての財宝をかき集めてもまるで足りない、永遠の宝物、このお方を受けとめるために自分は生まれ、この小屋に置かれていたのだ、と。

 もちろん、このオリーブの木の物語は、誰かが考えた創作でしかありません。しかしそこには、たとえ創作であっても私たちの心を励ましてくれるメッセージが込められています。私たち自身が、このオリーブの木なのだ、と。誰もがとっておきの夢を抱き、その夢に向かって人生を建て上げていきます。しかし最初に思い描いた人生の設計図は、生活という現実に飲み込まれていく。夢を描いた人生は、まったく求めてもいないところへと追い込まれ、そこからどう変わっていけばよいかもわからない。それがこのオリーブの木のなれの果てであり、私たちの人生の行き着く先です。しかし突然、そう、まさに突然、私たちが予想もしていなかったタイミングと方法で、神は私たちを通して大いなることをなしてくださる。クリスマスにはその奇跡が起こるのです。あなたがもし自分の心にもイエス・キリストを受けとめようという勇気を持つならば、真っ暗な家畜小屋のような心にも、いのちの光が輝いていくのです。
 あなたは、子どもの頃どんな大人になりたかったでしょうか。自分の両親のどんな所を尊敬していましたか。あるいは両親のどんな所に欠点が見えていましたか。どんな夢をもって学校に進み、どんな夢へと成長させて社会に向かっていきましたか。どんな人と結婚し、どんな家庭を築き、どんな老後を考えながら、歩んできましたか。ふだん、こんな問いかけをされることはまずないでしょう。少なくとも年末の忙しさの中でこんな悠長なことを質問されるのは、教会くらいでしょう。しかし記憶の糸を懸命にたぐり寄せながら、自分の人生を振り返ってみるとき、私たちは気づくのです。神様は、あなたの人生に責任を持っているお方として、あなたの夢を叶えてくださったのです。しかし私たちの願うとおりにではなく、神様の願われているように、私たちを世界一の宝物としてくださいます。

 心に刻みつけて欲しいのは次のことです。神の子どもが飼い葉桶の中に生まれてくださった、という事実そのものが、あなたに今までの常識でものを見るのをやめよ、と命じています。いったい王子が奴隷の家で生まれることがあるでしょうか。ライオンが鶏小屋で生まれることがあるでしょうか。しかし神のひとり子であるイエス・キリストは、神でありながら、馬小屋の飼い葉桶の中にお生まれになりました。クリスマス、それはこの世の常識が完全に逆転する出来事です。それゆえに、現代の人々はクリスマスを喜ぶことはできても、クリスマスを理解することはできません。人々はクリスマスケーキをほおばり、プレゼントを交換しながらも、その人生はクリスマスの前も後も決して変わりません。健康、財産、名声、人間関係、そのようなものがあるかないかで、自分の人生の満足度をはかろうとします。しかし神の子が飼い葉桶に生まれたというクリスマスの出来事は、私たちに教えるのです。今まで人生を見てきたように、これから見ることはない。貧しさの中でも、愛に富む者としてくださる神への感謝が溢れてくる。病気の痛みが続く中でも、今いのちが与えられている一瞬一瞬をかみしめることができる。家族、友人、あらゆる人々に見捨てられても、決して見捨てることのない方がいつも私と共にいてくださる。そのお方こそ、私たちの救い主、イエス・キリストです。
 神は、イエス・キリストという宝物を私たちに与えてくださいました。この方を心に受け入れるとき、私たちも宝物になります。これまでは自分のことをつまらないものとしか見ることができなかったのが、自分自身を愛おしく思えてくるのです。それは神が私を愛してくださっていることがわかるからです。キリストは、やがて十字架につけられて殺されます。それは罪を犯したからではなく、私たちすべての人間の罪の身代わりとして死ななければならなかったのです。なぜ死んでくださったのでしょうか。キリストが私たちを愛しているからです。この世のあらゆるものを引き替えにしても惜しくない、かけがえのないものとして、キリストは私たちのために死んでくださいました。クリスマスは、神の愛が全世界に向けられた出来事です。そして今、私たちの心にイエス様は入りたいと願っておられます。神はあなたを通して、ご自分の愛を人々に伝えたいと願っておられます。この世の闇を照らす光として、あなたを通して輝きたいと願っておられます。どうかその宝物を受け取ってくださいますように。

posted by 近 at 16:00 | Comment(0) | 2013年のメッセージ
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