聖書箇所 使徒8:9-25
9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。 10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。
14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。18 使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。20 ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。21 あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。22 だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。23 あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」24 シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」
25 このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。
序.
ひとりのクリスチャンの人生を描いた大河ドラマ「八重の桜」が終了し、「黒田官兵衛」が始まりました。官兵衛もキリシタン大名であったと言われます。しかし秀吉の軍師を務めただけあり状況判断はすばやく、キリシタンへの大迫害が起こる前に早々に棄教しております。しかしこれは官兵衛だけを責めるわけにはいきません。当時の大名がキリシタンになったのは南蛮貿易の利益を得るためであり、高山右近のように国外追放にされても信仰を捨てなかった例は極めてまれでした。江戸時代の初めに岡本大八事件という出来事が起きています。幕府の役人であった岡本大八という人物が、今の長崎、当時は島原の大名、有馬晴信から六千両をだまし取った詐欺事件です。晴信が渡した六千両も、幕府の重鎮への賄賂資金であったことがわかり、大八は死刑、晴信は追放となりました。ところが、じつはだました大八もだまされた晴信もキリシタンであったのです。大八の処刑翌日、家康はキリシタンへの本格的な迫害を始めます。そして島原には新しい代官が派遣され、過酷な迫害が行われました。この島原で後に起こったのが、あの天草四郎の島原の乱です。こう考えてみると、江戸時代に生まれたキリスト教に対する偏見は、キリシタンでありながら犯罪にも平気で手を染める、そういった一部の信者のイメージが生み出したと言えるでしょう。信仰を告白し、バプテスマを受けていながら、心も生活もまったく変わっていない。そんな人々の姿が、今日の聖書箇所の中にも魔術師シモンという名前で現れてきます。
1.
今日、私たちがまず考えなければならないのは、クリスチャンとはどういう人を指すのかということです。もしその答えがイエスを信じ、バプテスマを受けた人ということであれば、シモンはまぎれもなくクリスチャンです。13節には、はっきりとこう書かれています。「シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた」と。しかしにもかかわらず、シモンは何も変わっていませんでした。サマリヤの大魔術師として人々を驚かせていた頃には「自分は偉大な者だと話していた」シモン。救われたはずなのに、心の中はそこから変わりません。使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見て、金で聖霊を与える権威を買おうとします。何のためにでしょうか。神のためにではなく、自分のために。聖霊を自由に用いることで、「自分は偉大な者だ」と語り、人々にもそう思わせたいがために。
皆さんはこのシモンの姿を見て、どのように思われるでしょうか。とんでもない人間だと思うでしょうか。しかし私は、このシモンの心が自分の中にもあるということを認めないわけにはいきません。私が語るとき、私が願うように聖霊が人々に臨んでくださって、信じる決心をしてくれたらいいのに。そう考えることはまちがっていることでしょうか。礼拝と説教者のためにとりなしてくれている方々は、そのように祈っているのではないでしょうか。聖霊を、自分が願うように操作しようとすること、それが過ちなのです。たとえ聖霊が働かれることによって宣教が前進するとしても、人間が聖霊を思うように動かし、働かせようとすることが間違いです。しかし私たちは、「神は願いを必ず聞いてくださる」という信念を振りかざすことで、聖霊を自分の願うように動かそうとする祈りをしてしまいます。
今日の聖書箇所の中には、このシモンがイエスを信じてバプテスマを受けていたという驚くべき言葉の他に、もう一つ私たちを混乱させるところがあります。それは16節、「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである」。このことばを読んで動揺しないクリスチャンはいないはずです。なぜなら、聖霊は私たちが救われた証印であると聖書の至るところに書かれているからです。「聖霊によらなければ、誰もイエスを主と告白することはできない」ともあります。私たちが救われるとは聖霊を受け取ることです。イエスを信じるとは心の中に聖霊が入ってきてくださることです。そして聖霊は信者の心の中で生きてくださり、罪を示し、悔い改めに導き、恵みを思い起こさせ、救われた時から永遠に至るまで、私たちと共に歩んでくださいます。だからこそ聖書は至るところで忠告します。「神の聖霊を悲しませてはなりません」。「御霊に満たされ続けなさい」。しかしサマリヤの人々は、信じたにもかかわらず、誰ひとりとして聖霊を受けていなかった。この事実を、私たちはどう理解すべきでしょうか。ここに、私たちは聖霊について改めて考えを引き締めるのです。それは、聖霊は人格をもった神ご自身であり、その願うままに自由に働かれるのだということです。なぜサマリヤの人々には、信じたにもかかわらず聖霊が与えられなかったのか。その答えは、数百年に及ぶユダヤ人とサマリヤ人の間の壁を打ち破り、両者が再び一つになるためでした。
サマリヤ人が信じた時、聖霊は彼らの中に下っていくことはできたでしょう。そして救われた喜びが彼らの中に起こったことでしょう。しかし聖霊は、もっと大きな喜びを彼らに与えようとされました。それがユダヤ人とサマリヤ人との和解です。神はサマリヤ人の教会が、エルサレム教会と一緒に成長していくことを願っていました。たとえ救われたとしても、ユダヤ人とサマリヤ人の敵意は容易にはがれ落ちぬほど強いものでした。しかしペテロとヨハネがエルサレム教会から派遣され、サマリヤ人のために祈った時にそこに聖霊が下った。ペンテコステの日に使徒たちに聖霊が降り、教会が誕生したあの喜びが、今サマリヤ人の中に生まれ、彼らは何百年にわたって対立してきたユダヤ人と共に救いを喜ぶ者となった。これが、聖霊が用意してくださった恵みです。神は、常に私たちの一歩先を見つめておられます。私たちにとって最大の希望は、神が私たちの願い通りに動いてくださることではなく、神が私たちの願いを超えて働いてくださることにあります。その聖霊の自由を、魔術師シモンは金で買おうとした。それはユダヤ人とサマリヤ人の対立を超えて生まれたサマリヤの教会にとって、最もふさわしくないことでした。だからこそ、ペテロの言葉は非常に厳しい。しかしその厳しさは、それでもまだあわれみが残された厳しさです。22節、「だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません」。しかしそれに対するシモンの答えは、彼の救い、および信仰と同じように限りなく灰色のはっきりしないものでした。24節、「あなたがたの言われたことが何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください」。彼は罪を悔いるよりも、罪のさばきだけを恐れています。自分から恵みの御座に近づく前から、使徒にとりなしの祈りを願っています。
2.
彼のことばのいびつさは、彼の救いのあやふやさを物語っています。救われる前の歪みは、救われた後でも変わっていません。彼がイエスを信じてピリポにつきまとったのは、神の言葉をより近くで聞くためではなく、ピリポの行う奇跡の秘密を盗むためでした。そしてその秘密が聖霊なのだと結論づけると、今度はそれを金で買おうとする。しかしこれは決して他人事ではありません。極めて現代的な、そして教会が抱えている問題をあぶり出しています。信じた、バプテスマを受けた、しかし心は新しく生まれ変わっていない。誤解を恐れず言えば、なんちゃってクリスチャンのオートメーション工場のようにならないように、私たちは福音を安売りしてはならない、信仰を安請け合いさせてはならないのです。
今、日本全国には約8000のプロテスタント教会があると言われています。それぞれの登録会員数の合計は約55万人。これは総人口の約0.5%にあたります。その55万人のうち、定期的に礼拝に出席している人々はどれくらいいるのでしょうか。28万人です。会員の半分以上が礼拝に加わっていないのです。中には高齢、病気、日曜勤務などあるでしょう。しかし大多数は、一度信じてバプテスマを受けたが、教会から離れてしまったという人々です。これも教会に原因がある場合もあるでしょう。しかしやはり大多数は、信仰の基礎ができていないということです。聖書の言葉を使うならば、岩の上に土台を建てないまま、その上にかぎかっこつきで信仰生活を積み上げてきた人々があまりにも多いのです。
人が教会を初めて訪れるのは、現実問題の解決を願ってがほとんどでしょう。病気が直りたい、家族関係を回復したい、漠然とした不安を解消したい。教会の門はすべての人に向けて開かれています。どんな理由であっても、神は決して拒みません。しかしイエスを信じる動機が、相も変わらず現実問題の解決や、そのための神の奇跡にとどまっているならば、その信仰は初めから土台がぐらついています。現実問題の解決を願って教会を訪れるのはよい、実際に神がそのような問題を通してその人の心を信仰に向けさせることもあります。でもたとえそうであっても、教会に導かれてから信仰を決心するまでの間に、現実問題に縛られている心を、みことばによって正しく取り扱われなければならないのです。確かに今、私の現実には様々な問題が取り巻いている。だがイエス様が私のために十字架でいのちを捨ててくださった、罪のさばきを身代わりに引き受けてくださった、永遠のいのちを与えてくださった、その恵みに比べたら、今私を取り囲んでいる問題が一体何だというのか。たとえ問題が変わろうが、変わるまいが、私にはイエスの贖いがあり、教会という神の家族がある。信仰というのは私ではなく神を人生の主語に据えることです。変わるために信じる、変わったから信じるというのは御利益信仰であり、移ろいゆく土台です。どこまでもグレーなシモンの姿は、今日の半数以上のクリスチャンの姿でもあります。そのために私たちは、はっきりと、たじろくごとなく、我にあるは十字架のみ、という、まことの福音にとどまらなければなりません。人々を教会に誘う手段には人々の興味やニーズを用いることはあっても、人々がキリストを信じるまでにはその人生観を、みことばという不動の土台へと移し替えなければならないのです。
ひとり一人が、灰色の信仰ではなくむしろイエスの血潮によってきよめられた、純白の信仰をもって歩んでいくことができるように。お祈りをいたします。