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2014.1.19「荒れ果てた道を下れ」

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聖書箇所 使徒8:26-40
 26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。) 27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。
  「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、
   彼は口を開かなかった。33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。
   彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。40 それからピリポはアゾトに現れ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。


1.
 先日の宣教区新年聖会で配られた、講師の村上宣道先生のプロフィールに「全国的なエバンジェリスト」という言葉がありました。聞き慣れない言葉ですが、エバンジェリストとは大衆伝道者のことを指します。村上先生の一つ前の世代のエバンジェリストが本田弘慈先生でした。2002年に亡くなられましたが、かつて新潟にも来られ、多くの会場で伝道集会を行われました。ある牧師が、本田先生についてこう記しています。
 本田先生は常に全国を飛び回るエバンジェリストであると同時に、いくつかの教会を開拓した牧会の人でもあった。牧師として自分の教会、信徒に関わる時間は極めて限られていた。だが彼が牧した教会の信徒たちは、先生が召された後も口を揃えてこう言うのだ。「自分は本田先生に一番愛された信徒です」「私ほど本田先生にお世話になった者はおりません」と。
(中島秀一「本田弘慈を牧会から大衆伝道に進ませたのは何か」、p.292から一部要約)
この文章が意味していることは、数百、数千のたましいを勝ち取ろうとするエバンジェリストは、たったひとりの魂を決してないがしろにしないということです。イエス様は大勢の群衆にみことばを語られましたが、同時にひとりの人を大切にされた方でもありました。そしてピリポもまさにイエスのごとく、そして真のエバンジェリストでありました。彼の伝道によってサマリヤで多くの人々が救われました。しかし彼の心の中には、数の成功では満たされることのない、ひとりのたましいを求め続ける飢え渇きがありました。今日の聖書箇所の冒頭には「ところが」という言葉が出てきます。サマリヤでのリバイバルは伝道としては大成功を収めました。しかし聖霊は、その大成功の下で満足することをピリポに許さなかったのです。「ところが」という逆接語が伝えるのは、目に見える結果に安住することなく、聖霊はピリポをたったひとりの魂を勝ち取るために荒野へ向かわせたということです。聖霊はピリポにはっきりと命じられました。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい」と。そして聖書記者はこう付け加えます。「このガザは今、荒れ果てている」。これは、「ガザに至る道は荒れ果てた道である」と訳すこともできます。いや、むしろその方が適切な訳と言えるでしょう。もはや誰も好んで歩まないような道。人々から忘れ去られた道。しかしそこには、神が救いに定めたもう、ひとりの求道者がいたのです。

 クリスチャンが心に刻みつけておくべきことは、伝道とは荒れ果てた道へと下っていく、そういうことなんだということです。何の痛みも感じない伝道など存在しない。何の犠牲も伴わない伝道などあり得ない。なぜなら、伝道とは、私たち罪人のために死に至るまで苦しみ、いのちを捨てられたイエス・キリストを語ることだからです。私は世の友であり続けたいと願いながら、世に殺されたイエスも宣べ伝えたいということは矛盾しています。だからこそ伝道という言葉の前に私たちは葛藤し、逡巡する。足が凍り付き、唇はためらう。それを打ち破る、たったひとつの答えは、ただ聖霊の声に聞き従うということです。聖霊はピリポに何も約束していません。ただ、命じただけ。「立って、南へ行き、荒れ果てた道に出よ」と。恐れるな、おののくな、あなたが私の声に従うのならば、後はわたしがすべて備えるのだから。だからこそ聖霊の言葉は短い。私たちに必要なのは約束ではありません。ただ聖霊の短いみ声に、ピリポのように立ち上がる従順こそが、必要なものです。今日も聖霊は私たちの心に語られています。もし聞こえないとすれば、それは私たちがあまりにも雑音に囲まれすぎて、聞こえなくなっているのです。聖霊は、あなたに何を求めていますか。あなたにどこへ向かえと語りかけておられますか。

2.
 今日の聖書箇所は、私たちクリスチャンに個人伝道の本質を教えています。それを一言で言えば、私たちが聖霊の命令に従うならば、聖霊がすべてを備えてくださるということです。しかし私たちはしばしばそれと反対のことを行う。聖霊の声よりも、自分の判断で、聞いてくれそうな人を選ぶ。そして福音を聞いてもらうというよりも、無理やり口を開けて飲み込もうとさせる。しかし伝道とは私たちのテクニックに依存するものではないし、私たちが機会を作り出すのでもありません。ただ聖霊がすべてを備え、道を開いてくださるのです。聖霊はピリポに何も約束しません。ガザへ下っていけば、こういう人がいる、とは言わない。ただ立ち上がれ、そして南へ下れ、と言うだけ。しかし聖霊の声に耳を傾けて、その内なる声に自分の行動を従わせていくならば、ふさわしい時、ふさわしい場所、ふさわしい人を備えてくださるのです。神は救われるべきたましいをガザに至る道へと備えられていました。必要なのはそこにピリポが来ることだけでした。このエチオピアの宦官は、救いに飢え乾いていました。宦官というのは、ただの役人ではなくて、去勢させられた者のことです。宦官はたとえ異教徒からユダヤ教に改宗したとしても、一般の改宗者のように扱われませんでした。エルサレム神殿には、改宗者の入場が許された「異邦人の庭」という礼拝場所がありましたが、宦官はそこにさえ入ることが禁止されていました。それでもなお、この宦官は故郷からエルサレムまで、たとえ神殿に入ることができなくても、礼拝するために往復していたのです。

 この宦官は、あらゆる時代、あらゆる国に生きている、真理を求める人々の姿です。日本はクリスチャンの数がわずかです。真理を求めて教会に来る人もわずかです。しかしそれは、真理を求めている日本人がわずかであるということを意味しません。自分が子どもの頃から信じてきたこと、親から教えられてきたこと、でもそれが本当に正しいのか、思い悩み、答えを求めている人は決して少なくありません。問題は彼らにではなく、むしろ私たちの側にあります。クリスチャンや教会が、これこそが真理だと人々が認めずにはいられないものを保っているかということです。世の人々は、教会に何を求めているのでしょうか。教会に来たら楽しい、教会は居心地が良い、そんなものを求めているのでしょうか。私たちが自らに問わなければならないのは、真理に飢え乾いている魂に何を与えられるかです。楽しさでも居心地の良さでもありません。この人たちは、確かに何かが違う。この人たちの人生は、確かに何か自分の知らないものによって動かされている。触れた人々がそう感じずにはいられないものは、私たちひとり一人が、聖霊とみことばによって確かに生きているかどうかにかかっています。自分の願うように生きているのではなく、聖霊が命じるとおりに生きているかどうかです。

3.
 もし私たちが聖霊の声に従う決心ができているならば、神は私たちを真理に飢え乾いた人々の前に導いてくださいます。それだけではなく、その人の心を、私たちが語る前にすでに開いてくださいます。ピリポが馬車に近づいていったとき、彼は車中の人物が求道者かどうか見極める必要はありませんでした。馬車の中から聖書の朗読が聞こえてきたからです。宦官はイザヤ書を読んでいました。そしてここに語られている人は、いったい誰のことなのかといぶかり、信仰を導いてくれる人を求めていました。まるで自動ドアのように、ピリポが近づくと神が自然と開いてくださるのです。自分の力で伝道しようとするならば、私たちはいつも堅い扉をこじ開けることに苦労する繰り返しです。しかし伝道は、むしろ神が次から次へと扉を開いてくださいます。そのために必要なのは、聖霊が私たちに「立て」と命じられるのであれば立ち上がること。「下れ」と言われたら荒れ果てた道へと下っていくこと。そして何よりも、その聖霊のみ声を聞き取る心の備えをしておくということです。
 従うならば、自分の中に生きているイエス・キリストについて語る道が開かれていきます。聖霊は、ピリポが促す前に宦官のほうから自分を明け渡すように、彼の心を開いてくださいました。彼は馬車を止めるように命じ、そして数人から数十人はいたであろう従者たちの目の前でピリポからバプテスマを受けました。すると聖霊はすぐにピリポを連れ去り、彼はしばらくすると数十キロ離れたアゾトに現れました。このことが教えているのは、この宦官の心は聖霊によって十分耕され、ピリポのフォローアップを必要としていないほどに、すでに成長していたということです。彼は喜びながらエチオピアへと帰っていきました。おそらく馬車の中で、イザヤ書を53章からさらに読み進めていったことでしょう。そして今日の招きの言葉でもあった、イザヤ56章、宦官にも与えられる恵みの箇所に出会い、きっと喜びに満ちあふれて、故郷で信仰を守っていったに違いありません。

 ひとりのクリスチャンが聖霊の声に聞き従うとき、また新たなクリスチャンを生み出し、喜びが溢れていくのです。聖霊の声は多くの場合、極めてか細い囁き声で聞こえてきます。しかしそれを聞いたならば、答えるか抗うか、決断を迫られずにはいられない、強い力を持っています。ひとり一人が、聖霊の声に耳を傾ける、静かな時と場所を一日の中で確保しましょう。今、このときにも、聖霊は私たちに語りかけておられるはずです。信じ、救われるのか。信じず、また罪の中を転げ回るのか。声に答えて、聖霊の導きを体験するのか。声に耳をふさぎ、己の力で戦っていくのか。求道者もクリスチャンも、ここにいるすべての人が決断を促されています。どうか信じる道を。声に答えていく道を、選び取ることができるように。たとえそれが荒れ果てた道であったとしても、それは喜びへと続く道なのですから。

参考資料 中島秀一『わたしは良い嗣業を得たII−牧会歴50年を迎えた一牧師の嗣業−』、
発行:日本イエス・キリスト教団 荻窪栄光教会、発売:いのちのことば社、2010年。
posted by 近 at 16:33 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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