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2014.1.26「我流人生からイエス流へ」

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聖書箇所 ヨハネ15:1-16
 1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。


1.
 小学生の頃、そろばん塾に通っていました。今は子どもの習い事は英会話と水泳が人気だそうですが、当時は習い事といえばそろばんか書道でした。そろばんの経験者はわかると思いますが、あれは指の使い方が大切なのです。玉が並んでいる列を指で押さえたり、離したり。その指の動きは理論というよりは、からだにおぼえさせるというところがあります。ところがあるとき、急にわからなくなって、先生に質問してみました。「どうしてここで指を抜くんですか」と。するとその先生、自分の教え方がまずいと言っているように勘違いしたのか、怒ってしまいました。席に戻って、わかるまでやってこい、と。私も腹が立った。そこでそろばんをやめました。そろばん塾はやめない。でもそろばんをやめた。指を押さえたり、離したりというのをやめたんです。ひたすら指を早く動かして、力業で問題を解いていく方法に切り替えました。我流人生の始まりです。先生も頭を冷やしたのか、あるとき私の指の動きを後ろからじっと見ていたことがありました。そしてこう言いました。「もうお前のそろばんは独特すぎて、おれも直せない」。今から振り返ると、どこかで意地を張るのをやめて、先生に謝ればよかったのですが、できなかった。3年間くらい続けましたが、中学生になって部活が忙しくなってきたので、今度こそ塾をやめました。でも部活でも先輩に同じことを言われました。「近のラケットの振り方は独特だから、俺も直せない」。一度我流になってしまうと、いつまでも続きます。

 習い事ならば、我流もよいでしょう。いや、よくはありませんが、習い事をやめれば済むことです。しかし人生においても我流を貫く人々がいます。一人や二人ではなく、たくさんの人々がそうです。ただ我流とは言わず、こう言うのです。「多様な価値観」があっていいじゃない、と。彼らはこう言います。人生に、ひとつの決まった答えはない。それぞれが、それぞれの価値観を持ち、それぞれ認め合うのだ。しかしその多様な価値観という言葉が、むしろ人生を空虚にしてしまうこともあるのです。イエス様は弟子たちにこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり」。「わたし」とは救い主イエス様を表すと同時に、創造主である神を指しています。人は何のために造られたのか。多様な価値観という言葉は、人生の目的は神ではなく人が造り出すものだという主張を含んでいます。しかし神はばらばらな目的ではなく、共通した一つの目的をもって、すべての人間を造られました。それは、私たちが実を結び、その実が残るということです。あなたが神から離れ、我流の人生を貫いて、そこで中途半端に終わってしまうことを、神は望んでおられません。イエス様にしっかりと結ぶついて、そしてイエス流にしっかりととどまって、実を結ぶことを願っておられるのです。経験上申しますと、我流は楽な道です。結果は出せませんが、自分でやったという満足感は得られます。それに対して、先生や師匠の指導に従っていくのは苦しい道です。結果が出ても、自分の力なのか師匠の指導の賜物なのか、いまいち手応えがつかめません。しかし長い目で見たときに、やはり我流よりも師についたほうが技術が身につきますし、その厳しい指導に感謝する日が来ます。それは私たちの人生にも当てはまることなのです。「わたしにとどまりなさい」と、何度も何度もイエス様は語りかけておられます。とどまるということ、それはイエスを信じ、イエス流のやり方に従っていくことです。神は、あらゆる人が、神の方法にとどまって祝福を受け取ることを願っておられます。

2.
 かつてある青年が、よく当たるとうわさの占い師をたずねて、自分の将来を占ってもらったそうです。すると占い師は彼にこう告げました。「45歳までは、女性との出会いもなく、仕事面でもふるわず、喜びのない人生を送るでしょう」。青年はがっかりして、頭を抱え込みました。しかしせっかくここまで来たのだからと、さらにこう聞いてみました。「じゃあ、45歳からはどんな人生になるんだい」。すると占い師はこう答えました。「そんな人生に慣れっこになっているでしょう」。

 イエス様は、私たちが実を結ばない人生に慣れっこになってしまうことを悲しまれます。わたしにとどまれば、あなたがたは実を結ぶ者になる。しかしわたしにとどまらないならば、実を結ぶことはできない。その言葉に耳を傾けようとせず、オレの人生だ、オレの好きなように生きる。そんな我流を貫くならば、人生で得るものはただひとつ、実を結ばない人生に慣れっこになってしまい、何も変えようとしない、自己満足の繰り返しです。神はあなたの人生をその程度で終わらせるために、あなたを造られたのではありません。だからこそ、ご自分のいのちを十字架で捨てられました。私たちを古い生き方へととどまらせようとする罪から、私たちを救ってくださったのです。救われるためには何が必要でしょうか。自分の罪を認めて、悔い改めることです。今までの人生の中で、自分を傷つけ、他人を傷つけ、神をないがしろにしてきた、あらゆる罪を思い返してください。そしてイエス様が十字架の上ですべての罪を背負って死に、よみがえってくださったのだと告白するのです。そのとき私たちは罪にとどまる人生から、イエスにとどまる人生へと変わります。

 私はいつも我流人生でした。クリスチャンになる前は、自分のやり方で人生の勝ち組になろうとしました。クリスチャンになってからも、イエス様の姿に学ぼうとせず、自分流の信仰解釈で生きていました。牧師になってからも、日曜日には聖書を語りつつも、個人の生活においては自分流で考え、行動することばかりです。しかしイエス様の語られる言葉を心に刻みつけましょう。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます」。私たちの生活に落胆をもたらす、数々の罪は、神が取り除いてくださいます。そして私たちを苦しめるためではなく、実を結ばせるために、神は刈り込みをなさるのです。自分が誇りにしてきた実績も、私の人生が我流であることの証明でしかありません。神は、私たちがイエスにとどまるために余計なものをすべて刈り込まれます。さまざまな痛みを経験し、神よどうしてですかと叫びたくなるとき、神は私を我流からイエス流へと変えるために私を取り扱ってくださるのだ、と信じましょう。そのために必要なのは、神の剪定ばさみに身をゆだねること。切り落とす枝を決してまちがえることのない農夫に、己をあずけるということ。それがイエスにとどまるということなのです。

3.
 先日のニュースで知っている方も多いでしょうが、マー君の愛称で知られる田中投手が、約160億円という契約額で大リーグに移籍しました。宝くじで1億円当たるだけでも、金銭感覚が壊れて人生をまちがえる人も多いのに、マー君、160億円も大丈夫かといらぬ心配をしました。しかしある新聞記事を読んだとき、そんなねたみの思いが消え去りました。そこには実際に大リーグのコミッショナーとして働いている人の、こんなコメントが書かれていました。マー君に対して払う160億円は、彼の能力に対する評価額ではない。それは、今まで大リーグで貢献してきた数多くの日本人選手全体に対する評価額である、と。アメリカは実績主義であり、大リーグはその最たるものである。日本人選手が実績を挙げれば厚遇するし、挙げられなければ冷や飯を食わされる。だが日本人選手は、どんな境遇になっても高慢にならないし、不平他人にぶつけることもない。自分が打てなくても、チームメイトを励ますことに余念がない。この160億円という破格の契約額は、数え切れない日本人選手ひとり一人が積み上げてきたものに対する評価なのだ、と。そして記事には最後にこうありました。だからマー君はたとえスランプに陥ってもプレッシャーを感じる必要はない。なぜならば、この160億円の契約額は、あなたがこれから出す結果にではなく、すべての日本人選手が出してきた結果に贈られたものなのだから。

 私たちの信仰も、この記事によく似ています。私たちが何かをしたから、あるいは何かをするから、ということが救いの根拠ではありません。ただイエス・キリストのゆえに、私たちは救われ、そしてあらゆる祝福をいただくことができるのです。確かに私たちを実を結ぶことが求められています。でも実を結ぶために必要なのは、ぶどうの枝が何かすることではなく、農夫が行うわざです。そしてそれによって流れ込んでくる、イエス・キリストといういのちの力です。だからこそ、私たちは自分の我流の生き方を捨てて、ただイエス流にとどまることを選びましょう。我流の人生の果てには、罪の生活に慣れっこになる哀れな生き方が待っているだけです。しかしイエスを救い主として信じるときに、たとえ何があっても絶望することがない、実を結ぶ人生が始まります。それでは、しばらくの間、それぞれがみことばをかみしめましょう。
posted by 近 at 19:16 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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