聖書箇所 使徒9:1-9
1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
今回は説教録画を割愛させていただきます。
今から130年以上前のアメリカ。ある列車に二人の男が向かい合って座っていました。そのうちの一人が、窓から見える教会の十字架を指さして、片方にこう言いました。「なあ君、この国はあんなキリスト教などという古くさい教えを守っている輩で溢れている。君は学もあるし、筆も立つ。イエス・キリストなんて存在しなかったと証明する本を書いてみたらどうだ。きっとベストセラーになるよ」。話しかけられた男、当時のニューメキシコ州の副知事ルー・ウォーレスは友人の勧めに強く頷きました。そして多忙な職務の間を縫って、様々な資料を集め、本を書き続けました。数年後、その本は「ベン・ハー」というタイトルで出版され、友人の予言通りにベストセラーになりました。しかしこの本はイエスの実在を否定するどころか、むしろイエスによって主人公とその家族も救われるという筋書きに変わっていました。ウォーレスは、資料を調べれば調べるほど、イエス・キリストが実在した神であったということを否定できなくなってしまったのです。(1)
神のなさることは不思議です。キリスト教をおとしめるための本を書こうとしたウォーレスは、その執筆準備を通してイエスに捕らえられ、完成した作品はイエスの栄光を世に証ししました。そして二千年前、キリスト教を迫害していたサウロもまた、ウォーレスのようにイエスに捕らえられました。しかしキリスト教に対するサウロの敵意は、ウォーレスの比ではありません。彼はクリスチャンを手当たり次第に捕まえては牢に入れ、ある者は死に至らしめ、教会を潰そうとしていました。それでも彼は良心の呵責をおぼえることはありませんでした。なぜなら、この道の者、つまりクリスチャンを滅ぼすことが神の与えられた使命だと信じ込んでいたからです。クリスチャンはみな迫害を逃れてエルサレムから散らされていましたが、サウロはユダヤの隣国、シリヤのダマスコにまで追いかけていき、クリスチャンを根絶やしにしようとしていました。しかしそのときに、サウロは突然まばゆい光の中で神の声を聞きました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と。その経験こそ、迫害者サウロが、宣教者パウロとして生まれ変わる第一歩となったのです。
ここからまず言えることは、救いというのは人間の心がどうあろうとも、神が与えてくださる一方的な恵みなのだということです。神は、そのみことばによって人を変えるのです。どんな人でも、そう、サウロのような野獣でさえも、小羊へと変えるのです。「私は変わることができる」。この言葉は教会以外でも聞くでしょう。本屋に行けば一つの棚がこういう自己啓発関連の書籍で覆い尽くされています。でもその本の帯にはたいていこう書いてあるんですね。「強く願えば夢は叶う。自分を変えたいと願っている人、必読!」変わるか変わらないかは、本人が強く願うことによって生み出されるというのです。
しかし聖書が教えているのはそうではないのです。人が変わるというのは、その人が強く願うならば神が答えてくださる、ということではありません。その人の心がどうあろうとも、神がその人を変えようとされるとき、その人は変わる。救いがその人を変えるのです。サウロは自分は変わりたいと願っていましたか。迫害しておきながら、私も彼らのようになりたい、と強く願っていたのでしょうか。そんなわけはないのです。彼はクリスチャンをこの世から抹殺しようとしていたのです。しかし神はこのサウロを救われました。救いは本人の情熱とか、願望とは無関係なのです。ただ一方的な、神のみわざです。だからこそ、私たちには希望があります。もし救いが人の情熱に左右されるものであるとしたら、それは恵みではありません。報酬です。しかし神はみこころのままに人を変えることができるお方。たとえその人の心がどれだけ頑なに見えたとしても、神が働いてくださる時、その人は変わるのです。すべてのクリスチャンはそのことを実際に経験してきました。だから気落ちせずに、語り続けようではありませんか。イエス・キリストはあなたの救い主なのだ、と。それがどれだけアホらしい響きで世の人には受け取られたとしても、神は必ず人を変えてくださる、と私たちは確信できるのです。
サウロの救いはもう一つ、大事なことを教えています。それは、救いとは自分が罪人であると認めるところから始まるということです。世の中には多くの宗教があります。それぞれに教祖と呼ばれる人がいます。そして一人の例外なく、彼ら教祖は、サウロのような経験をしたと宣伝します。つまり、突然神の声が聞こえた、突然神の前に魂が飛んでいったとか言います。しかしサウロの経験は、彼らと明らかに違うところがあります。彼に聞こえてきた神のことばは、これまでの彼の行動を否定し、叱責し、悔い改めを求める言葉でした。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。あるいはい「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と。
神の声を聞いたとか、神に出会ったと宣伝する宗教家は数えきれません。しかしひとりの例外なく、彼らの主張は同じです。「あなたは○○教を世界に広めるために選ばれたのだ」と神に言われた、と。はっきり言って、これは教祖の願望が作り上げた妄想にすぎません。意図的な嘘ではなくて願望だから、自分でも信じてしまいます。そして事実ではなく妄想だから、自分にとって都合がいい言葉で終わっているのです。しかしサウロに与えられた神の言葉は、願望でも妄想でもありません。イエス・キリストは彼の行動を全否定するのです。教会を迫害することによって神を喜ばせていると勘違いしている罪人、それがあなたなのだと。
救いは、罪からの解放であり、罪のさばきの清算です。自分の罪がわからないまま救われるということはあり得ません。救われるためには、罪の自覚が必要なのです。自覚があって、初めて悔い改めることができます。イエス・キリストによって私たちの罪はすべて十字架につけられました。古い罪も、今の罪も、将来犯すであろう罪も、すべての罪が十字架で清算されました。しかし清算というのは、あなたの知らないところで支払ったよということではないのです。この罪を見なさい、あの罪を思い出しなさい、私があなたの身代わりとして引き受けるこの罪の重さ、大きさを心に刻みつけなさい。サウロがイエス・キリストから突きつけられたのは、彼が罪人であるという事実でした。私たちは、ここにまことの宗教があるのを見いだすのです。罪に対して無頓着だが人を動かす唇には長けている偽りの宗教が、サウロが信じていたパリサイ派の生き方であり、この世の宗教の姿です。しかし救いは、私たちが罪人であると認めるところから始まります。
それまで自分が正しいと信じてやってきたことが、じつは罪そのものであったとしたら。そのような問いを突きつけられても、変わらない人などいるでしょうか。家族を養うために、必死で会社に仕えていたサラリーマン。いい学校に入り、いい会社に入ることが勉強の目標なのだと教えられてきた子供たち。これが正しいことなのだと、人々は価値観を周りから押しつけられ、また自分でも作り上げながら生きています。それは何が正しいかを勘違いしたまま、神を悲しませ続けていたサウロの姿に通じるところがあります。しかしどんな人であろうとも、神はあらゆることを働かせて救いへと目を開かせてくださるのです。
この迫害者サウロは、後にパウロと名前を変えて、福音を伝える神のしもべになりました。新約聖書27巻のうち、約半分の13巻がパウロによるものです。パウロがいなければ今日の教会はあり得なかったと言われるほど、彼は歴史に偉大な足跡を残しました。しかしこのダマスコへの道で神がサウロを救われたのは、彼の能力のゆえではありません。もしパウロがいなくても、神は他の誰かを用いて教会を支えられたでしょう。神がサウロを救われたのは、ただ彼へのあわれみでした。まるで血を求める野獣のように自分を見失い、迫害を繰り返しているサウロへのあわれみでした。この世界において、サウロのように自らを見失い、さ迷っている人々がたくさんいます。彼らは福音に耳を傾けることはないし、教会の門をくぐることもないでしょう。しかし神はそのような人々を、想像もできないような方法で救いへと導いてくださるのです。「ベン・ハー」の作者ルー・ウォーレスもそれを経験したひとりでした。「ベン・ハー」が130年以上のあいだ、絶版することなく読み継がれているのは、それがただの冒険小説ではなく、政治家として歩んだウォーレスの苦しみが登場人物に反映されているからです。ただあわれみによって、私たちを救い、用いてくださるイエス・キリスト。私たちの罪のために十字架で身代わりになってくださったイエス・キリスト。私たちの救い主イエスの御名をかみしめながら、一週間を歩んでいきましょう。
(1)正木茂「この日この朝」(一粒社、1983年)、p.370