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2014.2.9「小さき者よ、忠実たれ」

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聖書箇所 使徒9:10-19a
 10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。12 彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、19 食事をして元気づいた。


説教者の髪型がおかしなことになっておりますが、インフルエンザで寝込んでおりましたのでご容赦ください。
 数週間前の説教で、有名な伝道者である本田弘慈先生について触れました。本田先生がご自分の洗礼式について回想している、こんな文章を紹介します。
 牧師が何か言っている。水を入れたガラスの小さな鉢を取り上げて、私の頭に水をかけた。一回、二回、三回・・・・。この時私は、ひざまづいたまま「今に気が変わる、今に心が変わる」と待っていた。「まだ変わらない、まだ変わらない」と思っている中に、オルガンを弾く美しい娘さんのことが思い浮かんだ。「あのお姉さん、何と思うだろう」、私は霊のことではなく、肉のことを考えていた。これは罪人のバプテスマである。新生しない者の洗礼であった。(1)
じつにクリスチャンのみなさんは、こういうところを通ってきたのではないでしょうか。「今に変わる、今に変わる」と思いながら、いつのまにか洗礼式が終わっていた。「なんとなくクリスチャン」の誕生です。しかしあの本田先生でさえ、そんな始まりであったということに、少し励まされます。私たちは洗礼というと、サウロのように「目からうろこのようなものが落ちて」という劇的な変化を想像しがちです。しかし救いについて覚えるべきは、劇的な変化よりも、あなたを救いに導くためにどれだけの涙と汗が流されたのかということです。サウロに関しても、このアナニヤというひとりの弟子がいなければ、救いの奇跡は彼に起こらなかったのです。今日は、アナニヤの姿を通して三つのことを学んでいきましょう。

 まず、神は人を救うために、小さな者を用いられます。このアナニヤは、聖書の中でここにしか名前の出てこない人です。しかし神は、この無名の人物アナニヤをサウロの救いのために用いられたのです。クリスチャンとして神のために働くということは、歴史に名を残すということと異なります。もしあなたが神様のために大きな働きをしたいと願うなら、すばらしいことです。しかし神様は、あなた自身ではなく、あなたを通してうみだされたクリスチャンによって、世界を勝ち取る働きをなされるのかもしれません。そしてあなたの名は歴史にうずもれていくでしょう。しかし自分の名を残すことよりも神の御名を高めることを願うなら、神はその小さな者を必ず用いられます。本田弘慈の名はクリスチャンによく知られていますが、彼にバプテスマを授けた牧師について知っている人はわずかです。また本田先生は、アメリカに大リバイバルをもたらした伝道者ムーディーにたとえられることがあります。このムーディーを救いに導いたのは牧師でさえありませんでした。自宅を開放して教会学校を開いていた、まさに無名の人物が彼を導いたのです。(2)
 神学校を卒業する前、ある牧師がこんな助言をくださいました。「説教をみがきなさい。教会は神の言葉によって立ちもすれば、倒れもするのです」。私なりにその言葉に従ってきたつもりです。牧会の営みの中で、この礼拝説教を大切にしてきました。しかし12年間牧会し、バプテスマを授けたのは7名です。しかもその7人にしても、説教で決心したという人はあまりおらず、教会のアットホームな交わりの中でいつのまにかイエス様を信じていたという方が多い。大丈夫かな、とりあえず祈りつつ様子を見よう、と最初の受洗者から10年。しかし7人とも、紆余曲折はあれど礼拝につながっています。
 それは牧師だけでなく、信徒もまた自分レベルでしっかりと関心を持って、声をかけてくださっているからです。牧師が、とか信徒が、ではなくて、どっちも小さな者として、無我夢中でお互いに仕え合っていく中で、神様はその小さな者たちを用いてくださいます。私がこの教会で教えられたことは、説教は講壇の上で完結するのではない、説教は信徒の生活の中でこそ完成する、ということです。私は牧師の説教で100人が信じるよりも、信徒がチームになって10人を導いていくほうが聖書的だと考えます。そしてそうして救われた10人が、また他の人々とチームを組んで10人を導くことができるように成長してほしいと願います。

 第二に、神はご自分と親しく交わる者を用いられます。神が用いられる人は、その器がどれだけ大きいかによりません。むしろ神様とどれだけ親しく言葉を交わしているかです。神様とアナニヤのやりとりは、まさに自由な空気を醸し出しています。幻の中で神に語りかけられたとき、アナニヤは「はい、ここにおります」と答えました。神が用いられるのはこういう人です。ふだんから神と交わり、神の言葉が語られたならばそれを聞き逃さない人です。私たちにとって週に一回礼拝に集まる意味は何でしょうか。この1時間半のお務めを終えれば、後は残りの一週間どう過ごそうともかまわない、ということではないはずです。この礼拝は出発点です。まず日曜日の最初にみことばをいただき、そしてそれからの六日間、常にみことばと祈りによって神様と深く交わっていきます。その繰り返しの中で、また次週の礼拝を目標点として歩んでいく、それが私たちの信仰生活です。地道ではあっても、ただそれを繰り返していくことによって、私たちは神様の御声をさらに深く聞き分けることができるようになっていきます。
 昨年、私と妻は結婚10周年を迎えました。10年前はお互いに恥ずかしがって言葉を控えたものでしたが、10年経つとお互いにめんどくさくて言葉を出し惜しみするようになります。気がつくと、相手に出している言葉が「聖書開いて」「風呂わかして」「早く起きて」とほとんど命令か、相手に行動を促しているものばかりになっています。神様との関係において、これと似た状況に陥ります。自分から神様に話す内容はお願いばかり、そして聖書を通して神様から迫ってくるのは命令ばかり。しかしアナニヤと神とのやりとりは、なんと生き生きしていることでしょうか。アナニヤは、神に物申すことさえはばかりません。サウロのところへ行けという命令に対し、このサウロという人は非常に危険な男です、どうしてですか、と答えます。これもまた、神との親しい交わりを表しています。神がいつも命令し、人はいつもそれに従うだけという、ただの主従関係ではありません。神からの問いかけを人は受取り、それが自分の納得できないものであることを正直に言い表す、すると神はさらに詳しく語ってくださる、そんな親しい交わりをいただきたく願います。

 最後に、神はご自分のみわざを完成させるために、人を用いられます。サウロは天からの激しい光によって視力を失いました。失意と悔い改めの中で祈っていたサウロは、アナニヤというひとりの人によって目が開かれ、そしてバプテスマを受けました。神は奇跡を起こされますが、その奇跡は、私たち人間のわざを通して完成させてくださるのです。神はサウロへの奇跡を完成するために、アナニヤを用いられました。私たちは神に奇跡を求めることができます。しかし奇跡とは、私たちと無関係に事が進むのではない、ということを忘れないでください。神様は今日、あなたにこう語りかけておられます。「あなたはわたしのしもべとして、使命を果たす準備ができているか。もしできているのならば、わたしはあなたを奇跡の一部とする。わたしの奇跡は、あなたによって完成される」。
 アナニヤは、神の奇跡を完成させる者として自分をささげました。聖書には彼の名はここにしか書いていなくても、神は彼のなしたことの大きさをご存じです。あなたにも神は使命を用意しておられます。人が救われること、それは奇跡です。人生に絶望していた者が神を仰ぎ見るようになる、それは奇跡です。それが実現するかどうかの鍵は、あなた自身が神の御声を聞き、それに従う準備ができているかどうかです。ぜひ、一緒に向かっていきましょう。神が小さな者を、そして忠実な者を用いられることを聖書は約束しています。私たちは神のみ声を聞き分け、自分の小さな力を神の大きな働きのためにささげましょう。


(1)「涙にかえて歌を」20頁。二次資料として、中島秀一「私は良い嗣業を得たII」(荻窪栄光教会、2010年)、285頁から引用。
(2)実際には、ムーディーの回心は1855年4月21日、教会学校の教師であったEdward Kimballによる。しかし一般に周知されているとは言いがたく、ここでは「無名」と表現している。
posted by 近 at 16:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2014年のメッセージ
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