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2014.2.23「三十八年、蚊帳の外」

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聖書箇所 ヨハネ5:2-9a
 2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。4 [本節欠如]5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。


※録音状態が悪いので、音声ボリュームを上げてお聞きください。
序.
 昨年、亀田教会と講壇交換したときのことです。愛餐会の時、ひとりの姉妹がこんな話をしてくださいました。新潟出身の下川友也先生が東京の神学校を卒業し、また新潟に戻ってきたとき、駅名が逆さまに聞こえてきたというのです。まず「新津」が「ついに」、「亀田」が「だめか」、そして「新潟」が「たがいに」。「ついに、だめか、たがいに」。新潟駅を降りたとき、どんよりとした空を見上げながら、「ついに、だめか、たがいに」とつぶやきながら教会に向かった、と。今はそれぞれ成長している教会となっているだけにみんな爆笑しましたが、私だけ正直ほっとしました。「豊栄が入ってなくてよかった」。念のため、頭の中で「豊栄」を裏返しました。「かさよと」、だいじょうぶ、ついにたがいにだめか、にはつながらない。しかし帰りの車の中で「かさよと、かさよと」と繰り返しているうちに、神様が私の心に一つの言葉を示されたのです。
 「かさよと」ではなく、「かやのそと」。後で辞書を引いたら、こうありました。「物事に関与できない位置に置かれること。内情がわからない立場に置かれること」。私たち教会には、内側にも外側にも戦いがあります。「ついに、たがいに、だめか」とため息をつかずにいられないような、そんな不安に襲われることもしばしばです。しかし自分は違う、自分たちの教会は違う、と自らを蚊帳の外に置くことには気をつけていきたいものです。教会の交わりは、とりなしのためにあります。内情がわからなければ、とりなすこともできません。神の家族としての、私たち教会員同士の交わりも、新潟の他の教会との交わりも、苦しみを分かち合い、とりなしの祈りをささげていくためのものです。「とよさか」と聞いたら「蚊帳の外」を連想するのではなく、周りの人々をとりなして「豊かに栄えさせていく」教会として記憶されたいと願います。

1.
 今日の聖書箇所は、二千年前のエルサレムで、いわば蚊帳の外に置かれていた人々の物語です。3節をお読みします。「その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた」。ここはベテスダの池。競争とあきらめが入り交じる場所。希望と失望の交差点。日常の社会からはつまはじきにされた者たちがこの池に運ばれてきました。ベテスダの池は、いわゆる間欠泉から水が引かれており、時たま、池の水面が動きました。池が動いたとき、最初に水に入った者はどんな病気でもいやされる。人々はその噂を聞きつけて、池の回りに伏せっていました。医者がさじを投げた病人、目の見えない人、足が動かない人、やせ衰えた人、そういった人々が一斉に奇声を上げながら、押しのけ合って池へと向かっていく。一等賞をもらえる人間は唯一人だけ。スポーツならば美しいかもしれませんが、ここにはあばらの浮き出た人々の争奪戦しかありません。自分だけはよくなりたいという人間のエゴがはっきりと現れる光景です。
 しかしこのことは決して二千年前の他人事ではありません。私たちが生きているこの世界もベテスダの池そのままです。時代や環境によらず、人は常に何かに追い立てられ、他人を傷つけ、自分を傷つけながら歩んでいます。自分さえ助かれば、自分さえよければという思いにとらわれています。それはなぜでしょうか。聖書ではそれを、すべての人間が罪をもって生まれてくるがゆえと説明しています。生まれながらに人の中には罪があります。罪は心を麻痺させ、自分を特別な存在と持ち上げます。罪は他人をけ落とし、自分さえよければという心の醜さを正当化します。その意味で、このベテスダの池の光景は、心の病人である私たちの人生そのものを語っているのです。

2.
 5節をご覧ください。「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」。蚊帳の外に置かれた人々の中でもまた蚊帳の外に置かれた人でした。彼は38年間、目の前で人々が水へ入っていくのをただ眺めてきました。しかし38年間、決してその場を離れることができなかった。宝くじが当たるまで、何度もちびちびと買い続けていく人に似ています。そして38年間、誰も彼に手を貸すこともなく、憐れみの目を向けることもありませんでした。しかし38年目の今日、イエス・キリストとの出会いが彼の人生を変えるのです。
 とはいえ間違えないでください、イエス様は彼を池へと運んでいきはしません。イエス様は、彼が想像もしなかった方法で、彼を病の鎖から解き放ったのです。あなたが、イエス様をいやし主、助け主、救い主として信じることはすばらしいことです。しかしイエス様はあなたが考えているようにいやす方ではありません。あなたが願っているように助ける方でもありません。イエス様の救いは、常に、どんなときも、あなたの小さな頭と心の限界を超えているのです。救いは、あなたの想像を超えた恵みです。周りのクリスチャンの生き方がこうだから、キリスト教会がこうだから、救いはこういうものだろう、と救いを押し込めないでください。救いは神の力です。ただ聖書だけにその姿が描かれています。あなたがイエスを信じると告白するとき、あなたにも、ほかの誰にも想像することのできない、圧倒的な違いが、あなたの人生に生まれるのです。

3.
 イエス様は彼に「よくなりたいか」と聞きました。この言葉一つをとっても、イエス様が私たちの常識を越えた方であることがわかるでしょう。お医者さんに「今日はどうしました」と聞かれることはあっても、「よくなりたいですか」と聞かれる人はいないでしょう。よくなりたいから、保険証を握りしめて、順番待ちをしたんですから。
 しかしイエス様は、「よくなりたいか」という質問の中に、すでにこの人が一番必要としているものを知っておられたのです。なぜなら、彼は「はい、よくなりたいです」と答えません。代わりに答えたのは、こんな言葉でした。7節をご覧ください。「病人は答えた。『主よ、私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りていくのです』」。
 彼はイエスの質問に口答えもしないし、怒りもしない、まっすぐに感情を表すこともしない。そこにあるのは、よくなりたいか、という問いに正面から答えたものではない、屈折した感情の表れ。私にはいない、私を入れてくれる人がいない、ほかの人にはいる、だが私にはいない、という人と自分を比べての失望でした。今のままでは現実が変わらないのはわかっている、だが自分にはどうすることもできない、というあきらめの感情すらその言葉からは感じられます。そこにあるのは現実を受け入れているようで、実は現実から目をそむけているという人の姿です。現実を変えるためには何が必要なのかを薄々感じながら、人と自分を比べ何も変えようとしない。彼の心を覆っていたのは直りたいという思いよりも、いつも人と自分を比べ、そしていつもあきらめるという繰り返しでした。

結.
 しかし彼の心の中がたとえどうであったとしても、イエス様は彼は見捨てません。彼の言葉がどうあろうと、彼の心がどうあろうと、イエス様が話しかけた事実は、この人が救いに定められているということです。8節をお読みします。「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい』」。イエス様は決して気休めの言葉でその場を繕うようなことはしません。言葉、ただ一つの力ある言葉だけで現実を一瞬にして変えることのできる方です。その単純な言葉は、直ちにこの人を変えました。そして確実に変えました。9節にはこうあります。「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」。
 これが救いです。あなたがどれだけの苦しみに満ちた人生を過ごしてきたとしても、やるべきことはただ一つ、イエス様の言葉に従うことだけです。この人のように、人と比べて、言い訳じみた説明をイエス様にすることもできます。しかしそれがあなたを救うのではなく、ただイエスを信じること、決断すること。それが38年間の縄目からこの人を救いました。あなたはもしかしたら、38年以上、救いがわからずにさまよってきたのかもしれない。しかし今日、イエスを自分の救い主として心にお迎えしてください。あなたに想像もできない、永遠のいのちの約束があなたに与えられます。

posted by 近 at 11:57 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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