現代日本における仏教葬儀は、日本の「イエ」=共同体制度における祖先崇拝である。そこには「イエ」に象徴される血縁関係(それはしばしば「近所づきあい」という地縁関係も含む)のしがらみという人間的な面と、死者の霊が祟らないように拝むという宗教的な面が混在している。表面的には前者が専ら現れつつも、そこに人々を駆り立てるものは後者の恐怖感である。キリスト者はこの世から聖め別かたれてはいるが、この世に生きこの世に責任を持って歩む者である以上、そのような仏教葬儀とも関わっていくことが多々ある。
まずキリスト者として第一に考えなければならないことは、この葬儀の本質を見極めなければならない。この葬儀が偶像崇拝ということではなく単なる近所づきあいという感覚に留まってしまうならば、いずれは焼香といった事柄に対して何の特別な意識も持たなくなってしまうだろう。この仏教葬儀が本来の「仏教」とよぶもおこがましい、人を死によって神とし、その祟りを避けようとする宗教行為である認識を、牧師は教会員に指導しなければならない。
一方で忘れてはならないのは、その宗教性の故に仏教葬儀をいたずらに拒絶するのではなく、その中でいかにしてキリスト者としての信仰を証しし、それによって誤った宗教行為に陥っている日本人の心に福音をコミットしていけるかということに心を砕くことである。そのためには遺族に対する慰めと憐れみの思いということを決してないがしろにしてはならない。焼香といった宗教行為は避けねばならないが、遺族に対する励ましは焼香以外でも十分出来る。授業で取り上げられたことだが、葬儀という公(おおやけ)以外の時に訪問し、遺族に対して慰めのことばを述べるということも有益であろう。死と復活に関するみことばをカードにして贈るという方法も、キリスト者ならではの励ましとして受け止められると思う。
私事で恐縮だが、筆者の親戚が死んだとき、私自身も焼香の列に並ばされたことがあった。その時筆者は焼香してはならないという意識はあったものの、どうすれば遺族に理解されるかということで混乱し、結局焼香台の前に立ったものの焼香は摘まずに遺族のために祈った。それは熟慮しての行動とは言い難かったが、筆者がキリスト者であることをよく知っている、件の遺族からは後で非常に感謝された。焼香ということがまぎれもない異教的な礼拝行為であることを意識することからすべては始まるという主張はそのような経験から来ている。それを避けるために死にものぐるいで知恵をはたらかせ、なおかつ遺族に対する励ましの気持ちを忘れないことによって、私たちはキリスト者としての証しを葬儀の場で立てることができるのではないだろうか。
もし自分が葬儀をする方の側だったらどうだろう。実際の所、教会で葬儀出席に苦しむ人たちとしては、嫁として葬儀に否が応でも出席しなければならない婦人たちの例が容易に考えられる。その場合であっても、死者崇拝である焼香を避けるという基本原則は守らなければならない。その代わりに裏方で必要とされている様々なこと(お茶や食事の準備など)に積極的に関わることによって決して死を悼んでいないわけではないということを示すことが必要だろう。キリスト者が焼香をしないとき、キリスト教に理解のない人々の批判は焼香をしないことそのものよりも、愛が足りないといった感情的なことに集中する。そのような思いを第三者に与えないような、しかし信仰者としての基本を外すことのない関わりが葬儀の場にあっても十分できるのではないかと思われるのである。
2.またどのようなキリスト教葬儀を行うべきか。
キリスト教葬儀に出席した人々は「明るい」という印象を持つという。それもまた死者の祟りを静めることが目的の仏教葬儀と復活の希望に満ちたキリスト教葬儀というそれぞれの性格を鑑みると当然かもしれない。キリスト者(牧師)としてどのようなキリスト教葬儀を行うべきかという問題は、今日葬儀そのものの意義が崩れ始めている状況の中で決して無視できない事柄である。現代の日本を象徴する定義として刹那主義という言葉がよく用いられる。先のことなどどうでもよい、今が楽しければそれでよいという、まさに今の価値観を言い表しているこの言葉は葬儀に対する人々の回答でもある。生きていることが大事なのであって、死んだ時にどのような葬儀をしてもらうかなどはどうでもよいという意識が現れている。今日の葬儀の簡略化に流れている思想は決して金権的な仏教葬儀への批判だけではない。刹那主義というそのような意識もまた影響を与えていることをキリスト者は決して忘れず、そのような傾向に対して永遠を指し示すキリスト教葬儀のあり方を模索していかなければならないだろう。
キリスト教は言葉の宗教である。イエス・キリストは受肉した神の言葉であり、聖書はことばによって私たちに神の御心を指し示す。私たちが死に際しても永遠への慰めを受けることができるのも、神のみ約束が聖書を通して私たちに伝えられているからに他ならない。その意味でキリスト教葬儀もまた、説教が重要な位置を占めるべきであり、それは単に聖書の言葉を羅列したり、死者の思い出を語るだけのものではなく、生きた言葉でなければならない。「生きた」というのは、葬儀に参加している人々に、復活への希望が本当に生きたものとして伝わっているかということである。筆者の未信者の友人が、あるキリスト教葬儀に参加したとき、「死者を人質にしてむりやりキリスト教の説教を聞かされた」と言っていたが、後に別の人からも同じような意見を寄せられたことがある。確かに葬儀は伝道の絶好の機会と言えなくもないが、それがあまりにも前面に出過ぎてしまうことで参列者にこのような印象を与えてしまいやすい。泣く者と共に泣き、悲しむ者と共に悲しむという自然な行為が、説教を通してなされるような葬儀こそが求められているのではあるまいか。
3.道元を尊敬し、禅に生きる人に、どのように福音を語りかけるか。
戦国大名の北条氏康が、息子氏政が飯に汁を二度かけるのを目にし、北条の行く末を悲観したという有名な逸話がある。飯に汁を一度ではなく二度かけるようでは人の目利きも定まらないというこの話は、戦国の武士に禅宗の教えがどれほど深く根づいていたかということをうかがわせる。禅宗においては、日々の生活がすべて修行であるという一種の緊張意識がその根底に流れている。永平寺の修行僧も言っていたとおり、いつもどこかで緊張している生活であり、禅に生きる人は、日々の生活即ち修行であるという、そのような生活態度を求められている。しかしそれは決してキリスト教と遠く離れているようにも思えない。パウロが落伍者にならないために自らの身体を打ち叩いていると言ったのに通じるものがあるようにも思われる。道元の思想にはそれ以外にも聖書の教えに近いと思われるようなことがたくさんある。例えば「示して曰く、知るべし、仏家には教の殊劣を対論することなく、法の浅深を選ばず、但し修行の真偽を知るべし」といった正法眼蔵の言葉も、教えそのものよりも教えに従って生きているかを説いている。これをイエスのパリサイ批判(マタイ23:3)と並べて考えてみると興味深い。あるいは典座の教えもまた感謝ということが前面に出ており、これもまたキリスト教と決して遠く離れてはいない。
しかし禅宗はそれを自分の力でなしとげようとし、キリスト教の福音はそれが自力では達成できず、神の恵みによってなされていくというところに根本的な違いがある。葬儀の講義の際に関係性と区別性ということを学んだが、私たちが禅に生きる人々に福音を語ろうとするときにもこれが援用されるのではないだろうか。禅宗もまた道元はじめ人々の必死な真理を求めようとする思いから生じてきたものであり、キリスト者といえどもそれを簡単に否定すべきではない。むしろ生活の中からにじみ出るその熱心さは学ぶべき所さえあるかもしれない(関係性)。しかし人間の力ではどうしてもなし得ないところがあるということも私たちキリスト者は彼らに伝えるべきである(区別性)。それは決して自分たちが真理を知っているという優越感から語ってはならない。修行者の努力を認めつつも、かつては同じように自分の力でそれをなそうとしたが、そうではなく神の恵みによってそれが初めて本当の意味でなされるのだということを証ししていくべきである。おそらく人間的努力で修行を達成することの困難さを知っているのは彼ら自身である。キリスト者として、彼らの真理探究のそのような努力を認めつつも、人間には決してなし得ない限界があること(それは「罪」という問題を避けては通れない)、福音のみがそれを超越できるということを伝えていくべきである。
(指導教師 大和昌平師 提出日2002.1.17)
返却時コメント 古風な文章にひかれました。十年後の近牧師に会いたいです。大和