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2014.5.4「イエスのように」

週報はこちらです。

聖書箇所 使徒9:32-43
 32 さて、ペテロはあらゆる所を巡回したが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。
33 彼はそこで、八年の間も床に着いているアイネヤという人に出会った。彼は中風であった。
34 ペテロは彼にこう言った。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」
すると彼はただちに立ち上がった。
35 ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。
 36 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。
37 ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。
38 ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください」と頼んだ。
39 そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。
やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。
40 ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。
すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。
41 そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。
42 このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。
43 そして、ペテロはしばらくの間、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた。

1.
「奇跡」という言葉を聞いたとき、人々はどんな印象を受けるでしょうか。
8年間も中風で苦しんでいた人が一瞬でいやされる。心臓が止まり、遺体が洗われたほどの人がよみがえる。
多くの人々は眉唾物として受け止めることでしょう。
しかし今日、私たちはこう宣言したいと思います。「私たちの信じているキリスト教は奇跡の宗教である」と。
奇跡とは何ですか。何年も病で苦しんでいた人が一声で立ち上がることが奇跡でしょうか。
一度確かに死んだ人間を、手を取って立ち上がらせることが奇跡でしょうか。
それも奇跡でしょう。しかしあえてこう言いましょう。奇跡は奇跡でも、最大の奇跡ではない。
では、最大の奇跡とは何でしょうか。一言で言いましょう。それは、罪人が信仰によって救われるということです。
本来、今日の聖書箇所は次の10章とひとまとめで語られるべきところです。
なぜなら、ここには階段を一足登るように、何が本当の奇跡なのかということが語られていくからです。
この「使徒の働き」を書いたルカは医者です。
中風の病も数え切れないほど見てきたでしょう。多くの人々の死の瞬間にも立ち会ってきたことでしょう。
しかし彼は、病よりも、死よりも、ある一つのことを描くのにはるかに多くの筆を割いていきます。
中風の人であるアイネヤのいやしには、節にして4節分の筆が割かれています。タビタのよみがえりには、8節分の分量があります。
しかし次の10章では、48節にわたる10章すべてが、ひとつの奇跡を描くために使われています。
その奇跡とは何でしょうか。次回詳しく学びますが、それは異邦人が救われるという出来事です。
聖書が私たちに語っていることは、何よりも最大の奇跡というのは、じつは私たちが救われたということそのものだということです。
病がいやされたとしても、やがては別の病にかかります。死から一時よみがえったとしても、死なない人間になったわけではありません。
しかし私たちがキリストを信じて罪赦され、救われたということは、あらゆる病の中にあっても感謝をささげる力です。
たとえ今、死を迎えるとしても笑顔をもって受け入れることができる力です。
死も、病も、剣も、ありとあらゆるものにも動じないもの。それが私たちが受け取っている、救いです。
私たちは、自分が救われたということこそが、神が世に与えたもう最大の奇跡なのだと思いましょう。
だからこそ、私たちの信じているキリスト教は、奇跡の宗教なのです。
神が人として地上に来られたという奇跡によって、罪人に永遠の命が与えられるという奇跡が生み出されるのです。

2.
「奇跡」というものは、今までに見たことも聞いたこともないようなものとして受け止められがちです。
しかし私たちは奇跡によって生み出された子どもですが、何か新しいことをし続ける必要はありません。
この奇跡を他の人々にも経験してほしい、それが私たちの証しだとすれば、真新しいことをする必要はありません。
イエスが地上で行われたことを、私たちもこの地上で行っていけばよいだけです。

ペテロがアイネヤとタビタに行ったことは、イエスがかつて彼の目の前でなされたことそのままです。
8年間中風の病に苦しんでいたアイネヤに向かって、ペテロは優しく名前を呼びかけ、こう語りました。
34節、「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい」。
このとき、ペテロの脳裏には、かつてイエス様が中風の人をいやしたときの光景がありありと浮かんでいたことでしょう。
あの日、イエス様の話を聞くために集まってきた人々で、家の中は足の踏み場もないほどでした。
四人の人たちが中風の人を床に寝かせたまま運んできましたが、家の中に入ることもできません。
そこで彼らは屋根をはがし、中風の人を布団ごと、イエス様の前につり下ろしました。
ペテロはその光景をイエス様のすぐそばで見ていました。
彼らがいやされたいために必死でイエス様のあわれみにすがりついてきた様子、そしてそれを優しく受け止められたイエス様の優しい目。
そしてイエス様は中風の人にこう言われました。「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」(マルコ2:11)。
イエス様は「起きなさい」と言われ、ペテロは「立ち上がりなさい」と言いました。
イエス様は「寝床をたたみなさい」と言われ、ペテロは「自分で床を整えなさい」と言いました。
ペテロは、何も新しいことをしていません。ただイエス・キリストの御名によって、そしてイエス・キリストと同じように、ことばを与えました。

もし私たちの証しのわざに力がないとすれば、それはあまりにも我流になってしまっているからかもしれません。
クリスチャンとして、証しはこうあるべき、祈りはこうあるべき、そんな余計なものが私たちから力を奪っています。
それよりも、ただひたすら「イエスのように」ありたい。
今、自分が直面している問題、人々、出来事。それと同様のことが、必ず聖書の中に書いてあります。
そのとき、イエス様はどうされただろうか。そしてイエス様ならどうされるだろうか。
人生を歩むための、あらゆる模範をイエス様に求めることを忘れないで、聖書をいつも開いていきたいと願います。

3.
そしてタビタのよみがえりにおいても、ペテロはイエス様がなされたように行いました。
人々をすべて外に出し、ひざまずいて祈り、遺体の方を向いて「タビタ。起きなさい」と語りました。
このときも、ペテロの記憶に思い浮かんでいたのは、イエス様が会堂管理者の娘をよみがえらせたときのことでしょう。
そのとき、イエス様はペテロたち供の者と、亡くなった子どもの両親のほか、すべての人を外に出しました。
そして息をしていない少女の手を取って、「タリタ、クミ」とアラム語で言われました。
「タリタ」は少女、「クミ」は起きなさいという意味です。そして少女は命を取り戻しました。
ここからは想像の域を出ませんが、もしかしたらペテロもまた、アラム語で「タビタよ、起きなさい」と話しかけたのではないでしょうか。
「タリタ・クミ」ではなく、「タビタ・クミ」と。
だじゃれのようですが、しかしペテロがどんなときにもイエス様を慕い、イエス様をまねている姿からは、十分あり得ると思います。

私たち豊栄キリスト教会は、その名前の真ん中に「キリスト」の四文字が入っています。
新入社員が上司からまずたたき込まれる言葉で言えば、「私たち一人一人はキリストの看板を背負っている」のです。
人々は私を見て、キリストがどんなお方か知ります。人々はあなたを見て、キリストの愛に触れます。
イエス様は病の人々にどう関わられたでしょうか。死を迎えた人々にどう関わられたでしょうか。
そして救いを必要としている人々に、どう関わられたでしょうか。

その答えは、すべて聖書に書いてあります。
だからこそ私たちは毎日、みことばを開いていきたいものです。
イエスが見つめられたように人々の苦しみを見つめていきたい。
イエスが触れられたように人々の痛みに触れさせていただきたい。
そしてイエスが語られたように、私を死からいのちへよみがえらせた神の恵みを語っていきましょう。
posted by 近 at 15:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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