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2014.5.25「あなたはどこにいるのか」

週報はこちらです。

聖書箇所 創世記3:1-15
 1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
 8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
 14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

序.
 先週の金曜日、敬和学園高校の生徒さんたちが来てくださって、会堂のワックスがけや庭の草むしりをしてくださいました。
その二、三日前、引率を担当している、外国人の先生が、教会にご挨拶に来てくださいました。
アメリカのバーモント州というところの出身だそうで、お父さんは神学校の先生、お母さんは教会のオルガニストだとおっしゃっていました。
日本語もお上手で、小一時間ほど、故郷の教会の様子や、ご自分の信仰の話など聞かせてくださいました。
クリスチャンになってよかったなと思うことのひとつは、このように国籍や文化が違っても、はじめから垣根を取り除いた関係が与えられることです。
そして、その源は、聖書のことばであり、また私たちの救い主イエス・キリストにあります。
今日も私たちは、この聖書のみことばを通して、イエス・キリストを救い主として仰ぐ信仰をいただきたいと願います。

1.
今日の聖書の物語は、罪が人間に入ったという忌まわしい出来事の記録です。
多くの日本人は、罪という言葉イコール「犯罪」として理解しています。だから自分は罪人ジャアリマセンヨと言います。
しかし罪とは、目に見える行動を指すのではありません。目に見えず、人が抗うことのできない圧倒的な力、あえて言うならば原理です。
最初の人間であるアダムとエバが、蛇の誘惑に屈して神の命令を破ったとき、罪という強大な原理が彼らの中に入り込みました。
それはコップの中に入ったわずかな墨汁のようなものです。人の目には墨汁一滴だとしても、それは瞬く間にコップ全体の水を濁らせます。
そしてコップの水を全部取り替えないと、二度と飲むことはできません。
でも墨汁一滴を罪の原理、コップの水を私たちの心とすれば、心を全部取り替えることなどできないのです。
だからこそ、罪は恐ろしいのです。人々は、明らかに黒ずんだ水なのに、真水と言って、それを今日も飲み続けています。
聖書は、アダムとエバに象徴される、罪への盲目ぶりを、あえて「ふたりの目が開かれ」と皮肉を込めて説明しています。
蛇、すなわち悪魔は、神から自由になれば、あなたがたの目は開かれると約束しました。
そして二人は神の命令を破り、「目が開かれた」とそのとき思いました。しかし肉の目が開かれただけで、心はかえって盲目になったのです
肉欲、金銭欲、名誉欲、あらゆる肉の目が開かれました。しかしその代償として、彼らに新しい感情が起こりました。
それは「恥」です。裸であることを恥ずかしいと考えました。
西洋の文化と欧米の文化を比較して、「罪の文化」と「恥の文化」ということがありますが、両者は結局の所、ひとつです。
罪が入るところには、恥が生まれます。それまでアダムとエバは、神との交わりで心が満たされていました。
しかし心に罪が入ってきたとき、彼らは神との交わりしか持っていないことを恥ずかしいと考えるようになってしまったのです。
かつては裸を当然と考えていた彼らは、たとえイチジクの葉っぱでも、何かを身につけていなければ恥ずかしいと思うようになりました。
自分のありのままを受け入れることができません。何も持っていないことに対する居心地の悪さが生まれました。
それが幸せですか?決して幸せではありません。事実、恥を知った彼らは、神から身を隠すようになってしまったのです。

2.
みなさんは今、膝の上に聖書を持っています。そこには約二千ページにわたって、膨大な神の言葉が書いてあります。
しかしもしそこに、「あなたはどこにいるのか」という言葉しか書いていなかったとしたら、あなたはその言葉をどのように受け止めるでしょうか。
この牧師は訳の分からない質問をする、と思われるかもしれません。
でも、「あなたがどこにいるのか」という、この一言によって、二千ページにわたる神の愛が一言でまとめられているのだと言いたいのです。
永遠なる神は、すべてを知っておられます。全知全能の神が語られる言葉に、疑問文はあり得ません。
あなたはどこにいるのか」。それは、どうしてあなたはそんなところに隠れているのか、私の前に出てきなさいという、招きの言葉です。
神は、あなたを招いておられます。あなただけではなく、すべての人を招いておられます。
さばきを与えるために招いているのではありません。恵みと解放を与えるために、招いておられるのです。
でも私たちは罪ゆえに、神がそのように愛をもって私たちを招いておられるのだと考えることができません。
大人は、子どもや孫が何か粗相をすると「そんなことをしたらバチがあたる」と叱ります。
親戚や知人の上に何か不幸なことが起きると、「きっとバチがあたったんだ」と決めつけます。
しかしそれこそが、罪なのです。神は、アダムとエバをいつも見ておられました。
彼らが何をしているのか、どこにいるのか、どんな気持ちなのか、すべてご存じでした。そのうえで、あなたはどこにいるのかと呼びかけました。
それはさばくためではありません。もう一度神の前に戻り、悔い改め、罪の赦しをいただくために招いておられたのです。

3.
しかし神の招きに対して、アダムとエバが園の木の間から姿を現したという言葉はありません。
おそらく彼らは木にもたれかかり、神様に背を向けたまま、声を張り上げたのでしょう。
しかも彼らの言葉は、罪を悔い改めるどころか、罪をかえって上塗りしていくような響きに満ちていました。
それは責任転嫁です。自分が悪かったと認めようとせず、他人、あるいは神ご自身に原因をなすりつけようとすることです。
12節でアダムはこう言い放ちました。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」。
13節でエバはこう言い放ちました。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
アダムは、妻であるエバを「この女」呼ばわりするばかりか、「あなたが私のそばに置かれた」と、神ご自身に責任をなすりつけようとしています。
エバに至っては、アダムなど眼中にありません。蛇に責任をなすりつけています。
余談ですが、全国100人の既婚女性にとった最近のアンケートで、妻の6割が夫に興味がないと答えているそうです。
罪の原理に支配された人間は、他の者にその罪をなすりつけることで、その罪の重荷から離れようとします。
それはこのアダムとエバ以来、今日に至るまで、決して変わることのない人間の姿です。
ある子どもが、いじめに関わっていたということで、学校から家庭に注意が行きました。
一昔前ならば、夫は妻に対し、「おまえのしつけが悪いからだ」、妻は夫に対し、「あなたが家庭を顧みないからよ」とやり返しました。
今ではそれに加えて、「私たち親は悪くない。学校が悪い、教師が悪い」と責任逃れをするかもしれません。
いずれにしても、それを見ている子どもは、「大人がこんなだから、俺はこうなってしまったんだ」とやはり責任転嫁。
罪は、最初に私たち人間と神との縦の交わりを引き裂きます。しかしそれだけでは終わりません。
人と人との横の交わりも、容赦なく壊していきます。さらにそれを自分の子へ、孫へと引き継いでいくのです。

結.
しかしじつのところ、子どもたちはたとえ大人が罪を犯す姿を見ていなくても、必ず罪を犯します。
たとえ責任転嫁の実物標本がなくても、ごく自然に責任をなすりつけることを知っています。
それは、あらゆる人間が、アダムとエバから生まれた者だからです。人は生まれながらにして罪人なのです。
新約聖書にあるローマ人への手紙には、「罪が与える報酬は死である」と教えています。
ここで言われている死とは、地上の人生に訪れる死ではありません。死後も苦しみ続ける、罪のさばきとしての永遠の死です。
しかし、そのみことばは、こう続きます。「しかし、神のくださる賜物は、主イエス・キリストにある、永遠のいのちです」。
自分の力では罪に抵抗することができない、あらゆる人間のために、神は報酬ではなく賜物として、救いを用意してくださいました。
それが、最後の15節にある言葉です。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく
」。

「おまえ」とは、動物としての蛇を表しているのではなく、罪の原理を象徴しています。
そして「女の子孫」、これもエバから生まれる、すべての人類を指す言葉ではなく、イエス・キリストというひとりの人を指しています。
イエス・キリストは私たちの身代わりとして十字架で死んでくださいました。
しかし「かかとにかみつく」という言葉は、それは死に至る傷ではなく、イエス・キリストが確かによみがえられたことを表しています。
一方、「おまえの頭を踏み砕き」とあるように、キリストは私たちを苦しめるあらゆる罪の原理を、その脳天から打ち砕いてくださったのです。
そのことを信じますか。信じるならば、私たちは罪の原理から解放され、永遠のいのちの中に生きることができます。
信じる者には、信じるその時から、永遠のいのちは始まっています。死は、もはや私たちを恐れさせることができません。
クリスチャンの方も、求道者の方も、「あなたはどこにいるのか」から始まる、神の招きを心に受け入れてください。
posted by 近 at 15:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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