序.
神学校三年間の思い出深い授業の一つに説教演習がある。同じ主題や聖書箇所からの説教なのにかくもこれほどと思われるほど各人の個性が現れる。説教の奥深さに感慨深いものを感じた。その場で筆者はよく「間ガナイ」「聞イテテ疲レル」という評価を受けた。批評は謙虚に受け止めざるを得ないが、しかし釈然としないものを常に感じていたことも事実である。(落語を聞いているわけではないのに「間」とはどういうことだ。ましてや神の言葉が他ならぬ自分に対して語られているのだから疲れないはずはなかろう)こんな反論を、カインのごとく顔を伏せながら心の中でつぶやいていたものである。 しかし振り返ってみると、今日語られている説教にはあまりにも緊張感が欠けているのではないかという意識を始終持ち続けたことは確かである。神の言葉の前に畏敬せずにはいられないはずの説教者が、ああもお気楽にしゃべれるのはどうしてなのだろう。しかし神学校生活に慣れていくにつれ、自らも説教に妥協していく現実に気づいた。説教の一週間前、テキストを選び、聖書を開く。原文と翻訳を比較し、意味を調べ、思想を探り、組み合わせる。数時間の作業ののち、また数時間かけてメッセージをまとめる。何度か読み直して推敲するが、暗記までは出来ない。そんな安易なスタイルが自分の中で定着していたとき、ある詩に出会い、その一節が耳にこびりついて離れなくなった。
「こんなにもたやすく詩が作れてしまうとは、なんとも恥ずかしい限りです」。
こんなにわずかな時間をかけただけで神の言葉の説教を語ってしまうとは、なんとも恥ずかしい限りです。それは筆者自身の告白でもある。だがそれは今日の教会に生きる、すべての説教者の告白でもあるのではないか。忙しさと力不足を口実にして、講壇に立つ前に既に妥協している現実はないだろうか。かくも奥深く、はかり難き計画に満ちた聖書を真摯に語ろうとするとき、緊張せずにはいられない。そしてその緊張は説教の中に自ずと現れ、会衆もまたその前に緊張させられるものではないだろうか。以上のような問題意識のもと、説教に緊張感を取り戻す神学的営為を筆者はこの論文で模索していきたい。それを不十分な表現ながらも「緊張の説教論」と呼びたいと思う。とまれ、筆者が本論文において企図する内容と構成は以下の通りである。
第一章 今なぜ「緊張の説教論」か
今日の福音主義教会における「説教の貧困」と呼ばれる諸問題を概観し、危機意識を提起する。
第二章 「緊張の説教」の歴史的文脈
説教史の観点からこの「緊張の説教学」を歴史的文脈に位置付ける。説教の緊張は、決して「新しい教え」(使徒17章19節)ではない。旧約の預言者説教、新約の使徒的説教に始まり、宗教改革を経て今日にまで至る説教史の中において常に念頭に置かれていたことであった。
第三章 「緊張の説教」とは何か
伝統的に説教論の焦眉的課題として、何を語るか・誰が語るか・誰に語るかという三要素が主張されてきたが、それを根本から整理しつつ、「緊張の説教」の神学的定義を試みる。
第四章 「緊張の説教」と「神の言葉化の神学」
バルトに始まり、今日のわが国における説教学に多大な影響を与えている「神の言葉の神学」に福音主義的聖書論から批判を加えつつ、宣教論的に説教学を位置付ける。