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緊張の説教論(3)「1-1.いのちを与える説教めざして」

第一章 今なぜ「緊張の説教論」か    今日の説教壇を取り巻く状況についての一考察

第一節 「いのち」を与える説教めざして

 宗教は今日、人間の幸福のための単なる一手段とか、社会的な一有用物といったところまで、かつてなかったほどに落ち込んでしまった。・・・・(中略)・・・・宗教の領域全体に霊的情熱も霊的深みも欠けている。キリスト教が人間的な文明の言葉を語り、キリストの言葉を語っていない。(1)
 これは決して21世紀の言葉ではない。今からほぼ百年前、P.T.フォーサイスによって語られた言葉である。不名誉なことではあるが、まるで時代の隔たりを感じさせない指摘と言えるだろう。この一世紀の間、教会は霊的情熱と霊的深みを回復できただろうか。説教はキリストの言葉を語ってこれただろうか。フォーサイスよりさらに半世紀前、ルターを生み出した国の、ある牧師の息子はこう叫んだ。「神は死んだ。否、人間が神を殺したのだ」と。しかし今日、多くの教会の会衆席では、さらに辛辣な囁きが聞こえている。「神の言葉は死んでいる。否、説教者が神の言葉を殺しているのだ」。いまや神の言葉の説教は使い古された例話、現実味のない「愛」や「恵み」の連発で彩られている。そのような説教に会衆は何が期待できるのだろうか。彼らはもはや説教に何も期待していない。説教が語り始められた時、彼らが期待することは一つ、それが一刻も早く語り終えられることである。これらはあまりにも悲観的な指摘に思えるかもしれない。しかし断じて筆者は遠い国の知らない教会の話をしているのではない。日本の教会、その中でも福音派を標榜している、私たちの教会の実状について自戒として記しているのである。 会衆席からの無数の囁きに抗するように、フォーサイスはこうも叫ぶ。「説教者が説教を落としめたのなら、それを救わなければならないのは説教者である(2)」と。しかしそれはどのようにしてなされるのか。ある牧師は説教壇の権威が回復されなければならないと叫ぶ。他の牧師は主の礼拝が回復されることが急務であると、あらゆる世代を主体的参加者へと変えるような礼拝を模索する。またある者は礼拝の準備であり応答でもある日々のデボーションを確立させなければならないと言う。このような例を挙げていけば恐らくきりがない。しかしそれらが本当に説教を救うことができたかといえば甚だ疑わしい。相変わらず説教壇と会衆席の間には「超えられない淵」(ルカ16章26節)が黒々とした口を開けている。決して説教者の努力が足りないわけではない。あるいは語る内容が聖書的に間違っているわけでもない。しかしもがけばもがくほど私たちの説教は人々の現実と要求から遠ざかっていく、むなしい事実に説教者は失望する。だが、あれもこれも、と様々な説教の回復のための人為的方策を講じる前に、ここで説教者は立ち止まり、会衆席からの叫びに耳を傾けてみたらどうだろうか。清水恵三氏は、『日本人の説教』の中で、椎名麟三が語った次のような言葉を紹介している。
 説教が立派な内容をもっている場合でも、何か大切なものを欠いている場合が多いのである。その欠けているものこそ、土着化をはばんでいるものなのだ。しかしひるがえって考えてみると、土着化が問題になるというそのことは、現在のキリスト教の貧困を自らバクロしているものだといっていいだろう。何が貧困なのか。それは「人」である。・・・・(中略)・・・・私のような凡愚の信徒は、知識をあたえられるより、先生方の「いのち」をあたえられる方を願っているのである。(3)
 説教者は信徒に「いのち」を与えなければならない。知識ではなくいのちを。説教者が説教を通していのちを与えずして、いのちを与えたもう主キリストをいかにして語れるというのか。もちろんここには殉教が比喩されているのではなかろう。しかし加藤常昭氏によれば、ドイツの神学者R.ボーレンがかつて来日したとき、説教者を志す献身者たちに「殉教の覚悟をしてもらいたい」と語ったという。現代日本では殉教するような社会的状況にないことはボーレンも知っている。しかしそれにもかかわらずあえて彼がこのような言を発したということは、説教者にとってみことばを語ること、会衆の生死を決定するその正念場であるその説教の場において、説教者にもその覚悟をもって臨めという意味でなくして何であろうか、と加藤氏は述べているが(4)、椎名の意図もそこにあったのではないかと考えるのは穿ちすぎであろうか。

 説教者は毎週、聖書の中に輝くいのちの灯火を、信徒に先立って味わうことが許されている。それは重荷ではなく恵みであると思いたい。とはいえ、それは常に「恵まれる」経験ではなかろう。心を突き刺される痛みの経験、あるいは自らの霊的盲目、蒙昧さを文字通り骨の髄まで味わされる時である。しかし恵みであれ苦しみであれ、あるいはいかなる感情がわき起ころうとも、それは説教者が聖書の前に緊張させられる時であることは疑いない。ここまで私たちの心を揺り動かし、突き破る聖書。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(ヘブル4章12節)。そこまでの恐るべき力を持つ聖書の前に、説教者は緊張する。かつてカール・バルトは「説教が聖書に即しているならば、それが退屈ということはない(5)」と言ったが、説教者が聖書に徹した説教をなそうとするとき、それが講壇であれ書斎であれ、退屈どころか緊張を免れない。それは神の言葉を取りつぐことへの緊張だけではない。聴衆の前ではなく神の御前で語っていることへの緊張、聴衆にではなく神に対して語っていることへの緊張である。あるいは聖書に語られている出来事そのものから生起する緊張であり、その聖書を数千年間神の言葉として保守してきた教会の歴史性に対する緊張でもあるかもしれない。もしかしたら、それこそが椎名が「いのち」と表現したものではないか?今日の説教に欠けるものはこの、いのちを賭ける緊張である。決して心身に負担を強いる生理学的意味での緊張ではなく、神の言葉の真理性、歴史性、事実性から自ずと喚起される、緊張である。
 この聖書の言葉を語る者が、緊張せずにはいられようか。
脚注
(1) P.T.フォーサイス著、楠本史郎訳『フォーサイスの説教論』(ヨルダン社、1997年)、188-189頁。
(2) 同書、184頁。
(3) 清水恵三「日本人のための説教」、『説教者のための聖書講解−説教の課題と現実』(日本基督教団出版局、1987年)、310頁。
(4) 加藤常昭『愛の手紙・説教−今改めて説教を問う−』(日本基督教団出版局、2000年)、269頁以下。
(5) K.バルト/E.トゥルナイゼン共著、加藤常昭訳『神の言葉の神学の説教学』(日本基督教団出版局、1988年)、101頁。
posted by 近 at 09:25 | Comment(0) | 説教論
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