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緊張の説教論(4)「1-2.見える慰めではなく見えない恐れを」

 ドイツの神学者H.J.クラウスは「おそれとおののきの中で生きることが恵みの最高のしるしである」というルターの言葉をひきながら、今日の「説教者は、生ける神の前でおそれとおののきの代わりに、安心感と不遜のとりことなっており、ひとたび少しでも突風が吹きつけると、彼はもう一方の奈落である絶望へと吹き飛ばされてしまう(6)」と告発する。私たちはこのようなクラウスの指摘を聞くとき、それがドイツの教会だけではなく日本の福音主義教会にも広がっている現実を見る。「この聖書の言葉を語る者が、緊張せずにはいられようか」という、ごく単純な反語的問いは今や講壇からも会衆席からもほとんど忘れ去られてしまっている。現実への慰めと安心を求めるあまり、説教者も会衆も忘れてしまっているのだ。今私たちは己を顧みてこう問わなければならない。安心を説くことが会衆を慰めることであると短絡的に考え、文脈を逸脱した慰めを語っているということはないか、と。 バビロン捕囚の前後に生きたエレミヤは、安心を安売りする偽預言者たちを痛烈に批判した預言者であったが、かつて神は彼にこう語った。
 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。(エレミヤ6章14節)
 彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたがたに平安があると告げられた。』としきりに言っており、また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない。』と言っている。(エレミヤ23章17節)
 これらの箇所が伝えていることは、平安を安売りする偽預言者たちの告発もさることながら、彼らが「民の傷を手軽にいやし」、「嘲る者」「かたくなな心のままに歩むすべての者」に安っぽい言葉を語っているということであろう。手軽に癒すとは罪の悔い改めがないままに癒しを約束していることである。神の約束を受け取る者は応答として悔い改めに導かれねばならない。神を嘲り、かたくなな心のままでいることは許されない。だが今日、罪の指摘がないままに聖書の言葉がカウンセリングの一手法のような位置づけで語られている現実がある。いわゆる「カリスマ」派の日本における旗手である万代栄嗣氏は、内田和彦氏との対談の中でこのように語る。
 神の存在や、神を信じることのすばらしさを語る論法だけではどうしても行き着けない部分があって、イエス・キリストを語り、十字架を語る時にやはり罪の問題が出てくる。罪の事実とこわさ、そこからの悔い改めが必要であることを強く語る方法を、私たち日本の教会は持ち得ているのか。・・・・(中略)・・・・教会であろうと伝道の働きであろうと、罪からの赦しはキリスト以外にないという福音的なメッセージにこだわり続けないかぎり、宗教多元主義的な壁は打ち破れないのではないか。(7)
 カリスマ派からのこのような指摘は、私たち福音派の教会が罪をはっきりと語っているかということを熟顧させる。福音派は我らは聖書のみに立つと主張し、彼らを異言派として揶揄するが、むしろ私たちの語る浅薄な説教の方が預言と別物という意味で異言的にはなっていないか。慰めを語ろうとするあまり、罪の問題を避ける傾向はないか。自戒するにしすぎるということはない。

 説教者が講壇において「いのち」を語らなければならないとしたら、それは決して会衆が常に微笑み頷きながら聞いてくれるような場ではなかろう。いのちか死かが、説教者の言葉を通して会衆に提示される。いのちを選び取る彼らは、同時に来たる一週間を主にいのちをささげたしもべとして応答の生活に進んでいく。既に永遠のいのちを与えられている教会員だからといって、みことばの前に安穏としていることはできない。主のしもべとして歩んでいく信者の生活は、悔い改めなしには決して進んでいくことはない。いのちか死かかは伝道説教の時だけ提示されるものではない。私たちはその峻厳な現実に緊張しつつ説教を聞き、古い肉の生活を捨て、新しい霊に基づく生活を更新し続けていく(cf.第二コリント5章17節、エペソ4章17節以降)。
 そのような説教の瞬間において、説教者もまた緊張を余儀なくされる。それは端的には、人に明らかにわかるような「恵み、慰め、励まし」といった言葉を直接語ることによってなされるのではなく、緊張しつつ、骨髄をえぐるが如きみことばをありのままに語ることが、聖霊の働きにより慰めと励ましとなり、人々を悔い改めと積極的応答へと導いていくのである。説教者はよく、うまく語れなかったと感じるときに聴衆の積極的な応答を受け、うまく語ったと感じるときに応答を見いだせないという経験があるという。それもまた、人にそれとわかる言葉ではなく、聖書が真っ直ぐに語られたときに聖霊が主体的に働かれるということの神的証明であろう。今日求められているのは、慰めや励ましを安直に語る説教ではなく、緊張しつつ、恐れおののきつつ語る説教である。人の理解や手応えを超えて、神の不思議なみわざが説教の聴聞の瞬間において働かれることを確信する説教である。そしてそれこそが真の意味でいのちを与えると言い得る説教なのである。

脚注
(6) H.J.クラウス著、佐々木勝彦訳『力ある説教とは何か−H.J.クラウスの説教論』(日本基督教団出版局、1982年)、60頁。
(7) 内田和彦・万代栄嗣『21世紀への対話−福音派とペンテコステ・カリスマ派の明日』(いのちのことば社、2000年)、120-121頁。
posted by 近 at 16:18 | Comment(0) | 説教論
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