当教会では新発田キリスト教会牧師の本間羊一牧師が説教を取り次いでくださいました。ご奉仕に心から感謝いたします。
週報はこちらです。
聖書箇所 ヨハネの福音書3:16-21
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
新発田キリスト教会の本間と申します。今日は、新潟山形宣教区講壇交換となり、豊栄キリスト教会で礼拝の恵みにあずからせていただけることを感謝いたします。6月8日には、村上、新発田、豊栄の頭文字をとって村新豊交流会という三教会の交わり会をしていただきまして、楽しいひと時を与えられ、感謝しております。
教会では、「交わり」ということを大切にいたします。使徒信条という教会が信ずべきことが言い表されたものの中にも「聖徒の交わりを信ず」と言われています。
ある先生が、この使徒信条の原文はラテン語であるということですが、その原文から考えると、「聖徒の交わり」という言葉には二つの意味合いがあると教えておられました。
私たちの唱える日本語のもので考えれば、神を信じる者はその罪を赦され、聖なる者とされる。その聖なる者たちの交わりという意味です。でももう一つの意味合いとして、「聖なるものによる交わり」という意味がもともとある、というのです。
しかしこのことは、教会に通い続けておられる方からするなら、自ずと気づかされることではないか、と思います。教会は交わりを大切にする。交流し、親睦を深めることを大切にする。食事の交わりを大切にする。しかし、それは、ただ人間同士が差し向かいで楽しくやっているというだけではない。社会や家庭、普段の生活とは違うメンツがいるから、新鮮で気晴らしになる、というような意味での交わりではないのだと思います。
「聖なるものによる」交わり、すなわち、共に聖なるものを共有している交わりということでしょう。それを最もよく教えてくれる者は聖餐式ではないかと思います。
聖餐式でいただく一かけらのパン、小さな杯のブドウ汁一杯、しかし、そこに、言葉で言い表すことのできないほどの神の愛が込められていることをクリスチャンたちは知っています。内村鑑三というキリスト者が、神の愛を海にたとえて論じていて印象的でした。愛とは海のごとし。その深さ、広さ、また生命を営む豊かさ、本当の愛とは海のようなものである。聖餐の小さなパンと杯に、海のような神の愛があることを覚えるのですが、そういうものを共有することによって初めて教会の交わりが始まる、ということであろうと思うのです。主の祈りにあるように、私たちは、赦された罪人だからこそ、互いに赦し合うという交わりです。
今日、お読みいただいた御言葉、ヨハネ3:16は、多くのキリスト者が愛する聖句、良く知られた聖句の一つです。それは昔からそうであったようで、時に言われることですが、16世紀の宗教改革者ルターは、この3:16を「小型の福音書」と呼んだということです。このたった一節で、福音書の重要なことを言い表しているということでしょう。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
「永遠の命」、これもまた、聖書が神を信じる者たちに神がお与えくださる最も重要な恵みです。
人は皆、やがて死を迎える。私はクリスチャンの家庭に育ちましたが、洗礼を受ける決意をする際、自分なりにその時の思いとしては、死への恐怖がありました。人は死んだらどうなるのか。神がおられるなら、私が死んだとき、私を正しい者として見てくれて、天国に入れてくれるだろうか、それとも、地獄があるならそちらに入れられてしまうのだろうか。
何だか少し前のことなので、最近は分かりませんが、一般的にも「地獄」という絵本が静かなブームとなっていたそうです。昔の日本の誰かが書いたような火が燃えていたり、針の山があったり、閻魔様の下っ端のようなものに舌を抜かれたり、というような絵本なのだと思います。
人は死への恐怖、また死後に対する漠然とした思いがあるのは確かです。それはクリスチャンであろうが無かろうが、そうなのだと思います。
しかしまた、聖書を丁寧に見ていく中で、この永遠の命というのは、死の先に、初めて与えられるものなのかというと、そうではないのではないか、ということを知らされる思いがしています。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
主イエス・キリストが、神の御子でありながら、人として世にお生まれになったのは、人をさばくためではない、と言っています。しかし、主イエス・キリストを前にし、人はイエスを信じる者となるか、それとも信じないのか、イエスを受け入れるのか、イエスを受け入れないのか、そのイエスに対する信仰の有無が、すでにさばきとなっている、というのです。
このヨハネ福音書の言葉遣いは、永遠の命とは単にやがて死の先に初めて手渡され、そして、文字通り永遠に生きながられえるというような意味で言われているというより、今、イエス・キリストというお方を前にして、それを信じる者はもう永遠の生命が手渡される、しかし、そうでなければ、もうさばかれている、そういう今の問題として、言われていると言えるのです。
つまり、私は神を信じた、洗礼も受けた、教会も通っている、あとはこのままで何とか歩み通せば、永遠の生命をもらえるぞ、がんばろう、今、私は何歳だからあとの何十年かは頑張らなくてはならないな、というようなことではないのです。
私たちのために生命をささげてくださった主イエスを信じるとき、もう今、永遠の命を与えられている、もう永遠の命の中を生き始めている、ということができる、少なくともヨハネ福音書はそういうふうにも読めるような書き方をしていると言えます。
ハイデルベルク信仰問答には次のようにあります。
問58 「永遠(とこしえ)の命(いのち)」という箇条(かじょう)は、あなたにどのような慰(なぐさ)めを与(あた)えますか。
答 わたしが今(いま)、永遠(えいえん)の喜(よろこ)びの始(はじ)まりを感(かん)じているように、この生涯(しょうがい)の後(のち)には、
目(め)が見(み)もせず耳(みみ)が聞(き)きもせず、人(ひと)の心(こころ)に思(おも)い浮(う)かびもしなかったような
完全(かんぜん)な祝福(しゅくふく)を受(う)け、神(かみ)を永遠(えいえん)にほめたたえるようになる、ということです。
やがて死を迎えるとき、確かに完全なかたちで永遠の命が与えられることを私たちは信じることが出来ます。そのことも聖書は語っています。
またしかし、今、永遠の喜びの始まりを感じつつ、歩むこともまたできるのです。
最近、教会で行う葬儀について教えている物を読みました。私もまだ経験は浅いですが、二度、葬儀の司式をさせていただいたことがあります。教会での葬儀は、神を礼拝しつつ、故人をしのび、また遺族の慰め、励ましをも祈るときです。そのようなことは自分なりに理解し、そう務めてきたつもりでしたが、学び直す中で、自分の中になおかけていた視点があったように思います。
ある先生が次のように言っていました。
「葬儀の礼拝の中でいろいろな形で故人の存在が強調されることがあってもかまわないと私は思う。しかし、そうした故人を愛した神、神に愛されて生きた故人という真の焦点が曖昧になることがあってはならない」。
人の死を悼む際に、つい、私たちはその人の生涯が何をなしたのか、また、その人はどういうふうに死を迎えたか、そのようなことにやや思いが向きがちである。
しかし、その人が何をなしたのか、また、その人がどういう最後を迎えたか、もちろん、そのようなことにも思いを向けるべきですが、それ以上に、その人がいかに神に愛されていたか、ということにこそ、私たちは目を向けなくてはならないのではないか。また、もう一言、付け加えれば、いかにその人が神に愛され、人に愛されたのか、そのことに目を向けなくてはならないのではないか。
人の死はいろいろです。長寿を全うする方もあれば、若くして死ぬ方もある。幼くして死ぬ方もある。病のものもあれば、突然の事故の場合もある。大災害で一度に多く人が亡くなり、その中の一人というような死となる場合もあり得る。ある者は何か大きなことを成し遂げたようであり、ある者は短い生涯という風にもみえる。また私たちはそれについて軽々しい慰めの言葉をかけることもできないし、かえって傷つけることもあります。
しかし、その中で、私たちが目を向けるべきは、その故人を愛した神が確かにあり、またその故人を愛した人がいたということではないかと思います。つまり、その人も神の愛のうちにあったなら、既に永遠の命を生き始めていたのではないか、ということです。
季節に一回、発刊されるあるキリスト教雑誌を定期読していますが、その中にあった一つの記事を興味深く読みました。
私も初めて名前を知りましたが、アンゼルム・グリューンというドイツにある修道院の院長を長くやっておられた方で、そのはこれまで200冊以上の著書があるそうで、その霊的に深みのある言葉が多くの人に読まれ、これまで30カ国語に翻訳され、14000万部が世界中で読まれている、何冊か日本語に訳されたものもあるということで、その人のインタヴューが載っていたのです。
ドイツでは今、教会を離れる人々が増えている一方、仏教関係など他の宗教の本もよく読まれるようになってきているという現実があるようです。そういう現実から目をそらさず、このグリューンという人は、次のように言っていました。
「人々が教会から遠ざかって行ったのは、小さい頃から神を『監視する神』『罰する神』として教えられ、そのようなイメージの中に神を閉じ込めてきたこと、また自分自身がそのようなイメージの中に閉じ込められてきたことに原因があるのではないかと思っています。カトリックにしろプロテスタントにしろ、そこで語られることは非常に道徳主義的でした。人々にまず『あなたは罪人です』『あなたはダメだ』ということを語り、罪を強調してきたのではないでしょうか。
確かにイエスは人間の罪について語っていますが、罪を指摘し、罪を暴くことではなく、むしろ人々を元気づけ、慰め、いのちをもう一度輝かせることを求めてきました。それで、私も人々に罪を語るのではなく、喜ばしい知らせを語ることから始めようとしたのです…もっと人々に、信仰というのは神が私たちにくださったいのちを生きることであることを知ってもらいたいのです。」(「ミニストリー」キリスト新聞社、2011年夏号より)
時に、この日本においても感じることは、このグリューンがいうように、神を「監視する神」「罰する神」とだけとらえてしまっていて、そこでややとどまってしまうがゆえに、「信仰というのは神が私たちにくださったいのちを生きることである」という恵みの部分に目が開かれていっていない人がいる、という事実です。それはもしかしたら、ドイツであろうが、日本であろうが、起こりかねないことであると思います。もちろん、聖書を読むとき、神は罪について語っている、その罪ゆえの厳しい裁きのことも語っている。そこにも意味があります。しかし、このグリューンさんは聖書を研究する中で、聖書には罪に関する言及よりも、「救い」に関する豊かな理解とシンボルがあることに気付いた、と言っています。
教会において最初に語られるべきは何か。恵みか罪か。罪が分かり、神の罰が分かり、その上で初めて恵みがわかるのか。私なりに牧師として聖書を学んでいる上で感じるのは、そうではないのではないか、という思いです。まず教会は恵みを語るべきではないか。その恵みの中で、赦されているという希望の中で、初めて、罪を直視できる、死を直視できる、神の罰のことを考えることができる、それらを上回る神の恵み、神の愛があるという確信の中でこそ、初めて罪がかえって分かるのではないかと思うのです。
永遠命を生きるとは、神の愛を信じて生きることです。たとえ死を迎えたとしても、神が私を愛してくださった生涯であった、と私たちは信じながら死を迎えることが許されているのです。
この交わりを育み、さらに広げてまいりましょう。