講壇と牧会は、切りはなしえない関係にある。その場合、常に講壇が先行し、牧会がそれにしたがわなければならない。牧会も、教会内のさまざまな活動も、団体のあり方も、すべて講壇への応答でなければならない。説教において、神の御旨が示され、その御旨への応答として、教会の活動があり、教会員の生活があるので、説教は常に教会生活の中心でなければならない。牧師が説教の無力を、牧会的手腕で補おうとしたり、教会が御言の宣教を怠りながら、いわゆる交わりと称するさまざまな社会的な会合や、社会事業的な手段方法で補おうとするならば、それはもはや御言による教会とは言えなくなる。それはむしろ、世俗的な団体の一つであると言わなければならない。あるいは、それが、数においては成功を見ることがあるとしても、それはあくまで、キリストの身体なる教会とは言いえないのである。(8)長い引用になってしまったが、それだけの価値のある言葉であろう。このような指摘を受けるとき、胸襟を正す思いにとらわれるのは筆者だけであろうか。数的増加が祝福とみなされるような今日の教会的状況において、この警告にとりわけ説教者は耳を傾けるべきである。なぜならばそれは聖書自身が語っていることでもあるからだ。かつてパウロはエペソでの告別説教において、アジア州の諸教会の監督たちに以下のように語った。
ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。(使徒20章26-28節)このパウロの言葉の中において、説教職と牧会職との統体性は決して動揺してはいない。前半部においては、パウロは神の言葉を人々に知らせる説教者として自らが歩んできたことを渾身の思いを込めて吐露している。そしてその文脈の中で、彼はその説教職の後継者たる監督たちに「自分自身と群れの全体とに気を配りなさい」と命じている。説教と牧会とは決して切り離せるものではない。車の両輪にたとえることもできるが、それぞれがまったく独立しての相互補完的行為ではない。加藤常昭氏の言を借りるならば「説教において既に牧会しており、牧会において説教の行為が続けられるのである(9)」。そしてパウロはまた彼が「余すところなく」「神のご計画の全体を」伝えたので「さばきについて責任がない」と語っている。そのような確信を持つことができるほどに、パウロの説教の働きは徹底したものだった。牧会の片手間に、というものではない。どちらも真剣であり、どちらも完全であった。説教と牧会はその意味で、それ自体一つの緊張関係の中にある。説教が力を失うとき牧会は衰微し、牧会が空回りするとき説教はいのちを与える言葉とならない。
先に引用したエレミヤもまた預言者であると共に牧会者であった。彼は預言が成就しないことに対する民の中傷に対し、主なる神に以下のように訴える。
ああ、彼らは私に言っています。「主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。」しかし、私は、あなたに従う牧者となることを、避けたことはありません。私は、いやされない日を望んだこともありません。あなたは、私のくちびるから出るものは、あなたの御前にあるのをご存じです。(エレミヤ17章15,16節)「平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ」(エレミヤ28章9節)と確信していたエレミヤによって、主のことばが成就しないことを嘲られるのはなんという屈辱であったろうか。しかし彼はそのような中でも預言者として、また牧者として生きることに主からの慰めと確信を得ている。「私のくちびるから出るものは、あなたの御前にある」!預言者として、牧会者として、語る言葉すべてが神の御前にあるという緊張は、私たちの説教の言葉が主の御前にさらされているという説教者の緊張をも示唆するものである。しかしそれはさらされていると同時にささげられているものでもある。その意識もまた、私たちが語る説教の言葉に責任と緊張を与えるものであると言えるだろう。
以上、今日の説教壇を取り巻く状況について不十分ながらも概観を試みた。それは、ひとえに説教と牧会が遊離している今日の福音派の現実に一楔を打ち込まねばならないという危惧感からであることを述べておく。今日、説教と牧会は妥協的分離のただ中にある。そこにあるのは説教に宣教と牧会の限界を見いだした人々の姿である。しかし果たしてそうなのか。説教は宣教と牧会の付帯物程度のものでしかなくなったのか。むしろ説教が本来の姿を取り戻すのであれば、宣教は自ずと拡大し、牧会者の過剰な負担は軽減され、信徒が礼拝よりも個人的デボーションによって「恵まれる」ような霊的倒錯は解消されるであろう。今「本来の姿」と書いたが、次章ではこの「緊張の説教」が歴史的文脈から必然的に見いだされるものであることを、説教史の観点から俯瞰していくつもりである。
脚注
(8) 後藤光三『説教学』(聖書図書刊行会、1960年)、191頁。
(9) 加藤常昭『愛の手紙・説教』、173頁。