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2014.7.6「あなたの心は良い地のごとく」

週報はこちらです。

聖書箇所 ルカの福音書8:4-15
 4 さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。
5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。
6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。
7 また、別の種はいばらの真ん中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。
8 また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
 イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。
 9 さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。
10 そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。
彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。
11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
12 道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、
あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。
13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。
聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。
14 いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。
みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。
15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。
正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

1.
 フランスの画家、ミレーの作品に「種まく人」というものがあります。
日本でも、戦前から岩波書店のマークとして採用されていましたので、ご存じの方も多いことでしょう。
この「種まく人」、今では芸術作品として確かな評価を得ていますが、これが画壇に登場したとき、世間の評価は真っ二つに分かれたそうです。
なぜなら、当時、農民は奴隷のようなものであり、その奴隷を芸術のテーマにするとは何事か、と。
しかもこの農民の足取りの、何と堂々としたことか。
これは農民による革命をほのめかしているものだ、とミレーに共産主義者のレッテルを貼る者も現れる始末であった、といいます。
 昨年、高知の県立美術館がミレー展を行いました。ホームページに次のような文章がありました。
 聖書で種まきは神の言葉を伝える行為にたとえられています。
そしてミレーの《種をまく人》は、人々に信仰を広めるキリストをイメージしているという説があります。
ミレーはノルマンディー地方の小さな村の農家に生まれ、忙しい父母に代わりミレーの世話をした祖母は大変信仰深い人でした。
また、父親が教会の聖歌隊を指揮し、叔父は神父という環境で、日々の暮らしは信仰と共にありました。
県立の美術館がこういう紹介をしてくださるのは、なんか嬉しいですね。

 ミレーの作品には種をまく人、水をくむ人、羊飼いの娘など、農村の無名の人々が描かれたものが多くあります。
それは、素朴な人々の、地道な生活の中に生きているキリストを、彼は見ていたのではないでしょうか。
イエス様は、高尚な神学論文ではなく、種まきのたとえを用いて、人々に真理を語られました。
どんな人であれ、真理を求める者には神はことばを与えてくださいます。種は、決して変わらない神のことばです。
しかしそれぞれ違う土地の種類は、私たちの心です。
同じ聖書の言葉を聞いても、ある人の心には届き、ある人の心はまるで実を結ばないことがあります。
しかし、じゃあ仕方ない、ではいけません。
神が私の心を良い地として認めてくださった、だから今、神のみことばが実を結ぶために語られているのだ、と思いましょう。

2.
 第一のたとえから見ていきましょう。最初に撒かれた種は、道ばたに落ちました。
イエス様は、道ばたとはみことばを聞いてもすぐに悪魔に持って行かれてしまう心だと言われます。
道ばたとは何でしょうか。多くの人の足によって踏み固められ、根を伸ばすにはあまりにも固いところです。
そしてこの道ばたこそ、ほとんどの人々の心そのものです。
聖書を聞いても、所詮きれいごとさ、現実ではそうもいかないよ、他人に合わせてやっていくしかないんだ、という思いが道ばたです。
みことばが心に蒔かれても、人々が踏みしめてできた道、すなわちこの世の常識や習慣に妥協しているから、何も生まれません。

 第二の種は、岩の上に撒かれました。他の聖書箇所では、ただの岩ではなく、表面を薄く土が覆っている岩地と書かれています。
根がないので枯れてしまうとは、土が薄いためすぐに芽を出すが、その下の岩に根を伸ばせずに枯れてしまう、という意味です。
上には柔らかだが薄っぺらい土の層、下には固く、厚い岩の層。
日本は総人口約一億二千万ですが、何らかの信仰を持っている人の合計は二億人以上いるそうです。
宗教が敬遠されるどころか、むしろ人によってはいくつかの宗教にまたがって暮らしています。
でも彼らにとって、信仰とはまさにこの薄っぺらい土の層の問題です。
目の前の問題を解決するために信じます。あるいは問題が起こらないために信じ続けます。しかしそんなものは、信仰の名に値しません。
薄っぺらい土にとどまっている限り、十字架の深さ、高さ、広さはわかりません。そして真の信仰は、下の岩さえも砕きます。
キリストを信じたら迫害があります。罪を悔い改めるよりも無視した方が楽に生きられるでしょう。でもそこで終わってはなりません。
永遠の命のために地上の喜びを捨てるほどの犠牲、しかし岩をうがってでも伸びていくもの、それが神のことばであり、真の信仰です。

 第三に登場する種は、いばらの真ん中に落ちました。いばらが生えるほどですから、種が根を下ろすのに十分な土もある場所でした。
しかし芽を出したのもつかの間、いばら、すなわち世の心遣い、富の惑わし、その他のさまざまな快楽が絡みついてきます。
ミレーの種まく人を会社のマークにした岩波書店が、初めて世に出した出版物は、ちょうど100年前、夏目漱石の「こころ」という作品でした。
そこに登場する主人公(「先生」)は、知識と教養があり、また美しい伴侶も得て、悠々自適の生活を営んでいるように見えました。
しかしその女性を得るために、彼は親友を結果的に自殺へと追い込んでしまいました。彼自身も、このことを遺書にしたため、自死を選びます。
彼は求めるものを得たはずでした。しかしそれは人生に満足を与えず、むしろいのちから目をそらさせる、いばらとなったのです。
100年前も、今も、人々の「こころ」は変わりません。いばらをいばらと気づかぬまま、目の前の欲望に絡められて真理を見逃しています。

3.
 最後に出てくる種は、良い地に蒔かれ、100倍の実を結びました。イエス様は、こう解き明かしています。
15節、「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです」。
他の聖書では、ただ「100倍」ではなく、「ある者は30倍、他の者は60倍、また別の者は100倍」という風に書かれています。
数字の違いは問題ではありません。大事なのは、神はみこころにかなう人々に、確かに実を結ばせてくださるということです。
種は神のことばです。撒かれた土地は私たちの心であり、種をまく農夫は、神ご自身です。
ここにおられるひとり一人が、自分は神様が認めた「良い地」の心を持つ者なのだと信じましょう。
一見、私たちの心は道ばたのようであり、土の薄い岩地のようでもあり、茨が生い茂るところのように感じます。
でも忘れないでください。私たちは、確かに良い地として認められているからこそ、今招かれてここにおり、神のことばを撒かれているのです。

しかし、良い地に撒かれた種が実を結ぶとは、いつかそうなるという遠い約束ではありません。
今、ここでみことばに答えていくことからすぐに、そしてすべてが始まります。
まるで自分の心を道ばたか、岩地か、茨のように神に不平をもらし、自ら自分の伸ばすべき芽をふさいでいたことはないでしょうか。
今、まかれた神の言葉を通して、あなたが認めてくださった、私の心という良い地に、どうか実を結ばせてください、と祈りましょう。

そして種は神のことばだけではなく、イエスさまご自身でもあります。
「一粒の麦が地に落ちて死ぬならば、豊かな実を結ぶ」と別のところでイエス様は語られました。
そしてそのことばのとおりに、十字架で私たちの罪の身代わりとして死んでくださったのです。
しかしイエス様はよみがえりました。私たちもイエスを信じるならば、よみがえり、永遠のいのちの喜びを歩んでいくのです。
どうかひとり一人が、イエス・キリストを自分の救い主として信じることができるように。
posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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