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2014.7.20「この世界よりも大切なあなた」

週報はこちらです。

聖書箇所 エペソ1:3-7
 3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。
神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

序.
 この7月は、台風と前線の影響でしょうか、新潟も豪雨や雷に脅かされる日がたびたび続いています。
また今年は、死者16名を出した7.13水害からちょうど10年目にあたります。
2004年7月13日、三条市を流れる五十嵐川の左岸の堤防が100mも決壊しました。
先日の豪雨も、三条では町中の道路が水であふれ、また堤防が決壊するのではないか、本当に怖かった、と三条の方から聞きました。
 10年前に五十嵐川の堤防が決壊したとき、堤防の管理人は、やっぱり起きたかと感じたそうです。
なぜなら当時の五十嵐川の堤防は、川側はコンクリートで塗り固めていたが、反対側は砂地のまま。
水があふれると、砂が流されて、堤防はバランスを失って倒れてしまう。
聖書には「岩の上に建てた家と砂の上に建てた家」というイエス様のたとえ話がありますが、まさにそのとおりのことが起きたのです。
水害が多いヨーロッパでは、堤防はコンクリートで土台を作り、その上を何メートルも土で覆い、草木を植えるそうです。
一本一本の小さな草木が盛り土の中に根を伸ばし、大量の水を吸いあげるのです。
どんなに分厚いコンクリートよりも、そんな一本一本の草木のほうが優れている、何とも教えられる話ではありませんか。
日本全国をすっぽり覆うほどの雨雲を作られるのも神様ならば、その計り知れない雨水を吸収する小さな草木を作られたのも神様です。
自然とは、何と大いなる力と知恵に満ちているのかと思わされます。

1.
 でも、この大いなる自然の力も、あなたという一人の人間の価値に勝るものではないのです。
今日私が説教題につけたのは「この世界よりも大切なあなた」ですが、これは聖書が私たちに教えていることです。
聖書の目次には、一番最初に「創世記」とあります。読んで字のごとく、宇宙、自然、世界のすべてを神が造られたことが書かれています。
書き出しはこう始まります。「初めに、神が天と地を創造した」。
神は一日目は昼と夜、二日目は大空を、三日目は海と大地を造られ、六日間ですべてを創造されました。
しかし興味深いのは、神にとって一番大事なものから造っていった、という描き方をしていないことです。
むしろその反対なのですね。最後の六日目に神は人間を造りました。
これこそが神が一番造りたかったものであり、それ以前の五日間は、人間が生きるために必要な舞台をととのえていくという描き方なのです。
信じられますか。こんなちっぽけな人間のために、宇宙が造られ、世界が造られたなどとは。
昔、ある評論家の方が「キリスト教は人間を自然よりも上におき、自然破壊を正当化する」と批判している言葉を聞いたことがあります。
しかしその批判は、一面的すぎると思うのです。今日お読みしたエペソ人への手紙には、こういう言葉があります。
神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」。
世界が造られる前から、神は人間に対する救いの計画を用意していたのです。
朝日の輝き、夕日の美しさ、草花の色合い、どんな小さな虫にも与えられた、生き残りの知恵・・・・
しかしこの自然のすべてが造られる前から、神はあなたを、永遠の計画の中で救いに選ばれていた。
進化論は、優れた者にこそ価値を認める考え方です。
しかし聖書には、優れていようが優れていまいが、神が認めてくださるからこそ、そこには価値があることを教えています。

2.
 キリスト教について語るうえで、罪の問題は決して外すことができません。私たち人間は、どんな者も罪をもって生まれてきます。
ときどきニュースなどで、「罪のない赤ん坊」という言葉を聞くことがありますが、批判を恐れずに言うならば、罪のない赤ん坊もいません。
すべての人間の先祖であるアダムとエバが犯した罪が、全人類に引き継がれるゆえに、人は生まれながらに罪人なのです。
しかし罪人だから価値がないのかと聞かれたら、決してそうではないと答えます。
イエス・キリストが十字架の上で死んでくださったのは、私たち罪人の身代わりでした。
私たちが罪のない者だから身代わりに死んでくださったのではありません。私たちが罪を悔い改めたから、死んでくださったのでもありません。
私たちが罪人であったとき、イエス・キリストはご自分から十字架につき、そして死んでくださいました。
自分が罪人であるとわからない者のために、イエスは死なれました。自分の罪を認めようとしない私のために、死んでくださいました。
なぜでしょうか。聖書が語っているとおりです。
神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」。
「彼にあって選び」の彼とはイエス・キリストのことです。
私たちは汚れた者として生まれてきます。傷だらけの醜い者の姿をさらけ出しながら、この世界でもがいています。
しかし神が選ばれたゆえに、いのちを受ける価値があります。
イエス・キリストによって救われて、聖く、傷のない者にされる。それがキリスト教の教える「救い」です。
この方を信じるとき、赤子の時から罪にまみれた者であっても、神の子どもとされるのです。

結.
 この世界に、不必要なものなど何一つありません。すべてに神の計画があります。
私たちひとり一人も、イエス・キリストと出会い、その救いをいただいて、幸いを得るために作られました。
神はそのひとつの計画のために、この世界のすべてを作られたのです。
あなたが世界のために作られたのではなく、世界があなたのために作られた。一見、エゴイスティックな言葉に聞こえるかもしれません。
しかし神にとって、あなたの人生は世界のすべてを引き替えにしてでも救わなければならないものなのです。
あなたのために、神はひとり子イエス・キリストを十字架につけて、身代わりにしてくださったのです。
この地球にいる人間が、70億ではなく、あなた、たったひとりだけだったとしても、イエス・キリストはあなたの身代わりになられたでしょう。
イエス・キリストは、あなたの心の中に入りたい、あなたの人生を喜びと平安で満たしたいと願っておられます。
posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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