ルターにとって、説教の緊張意識は「聖書のみ」という解釈原理に最も顕著に現れる。1530年から32年にかけてなされた『「山上の教え」による説教』を例に挙げて分析を試みたい。この年はメランヒトンによってアウグスブルク信仰告白が提出された年であるが、それを陰に指導したルターが説教者・神学者として最も脂の乗り切っていた時期である。この箇所は有名な「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」を中心とする戒めである。ルターの説教を概観してみると、まず与えられた聖書のテキストから他の箇所へ逸脱せず、また聖書自身からも決して離れないことが特徴として挙げられる。このマタイ伝のテキストからルターは四百字詰め原稿用紙にして約30枚程度の説教を展開しているが、その中で彼が他の聖書箇所に言及しているのはわずか三つ、しかもその内の一つはカトリックが根拠として用いる例として挙げたものである。またその説教自体、現代の訳者の脚注がほとんど必要ないほど、歴史的事件や他の聖書解釈者の言及が含まれていない。
以上のことは「聖書のみ」を標榜し、そこから離れることを禁じたルターの聖書解釈の原則がはっきりと現れたものと言えるであろう。それはまさにパウロが戒める「神のことばに混ぜ物をして売るようなこと」(第二コリント2章17節)に対するルターの回答である。説教が神の言葉であるというルターの確信は、説教に聖書以外の要素を含めるわずかな妥協さえも許さない。それは説教を神の言葉の説きあかしという本来の任務からどんなにわずかであっても逸脱させるようなことがあってはならないという緊張意識である。「もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる」(黙示録22章18節)という使徒の戒言はこの説教者にとって、今日の私たちが考えている以上の重みを持っていたと言えるであろう。そしてその姿勢はこの説教の中における結論についても如実に現れる。
この世の統治の中にある者に、法律家や法が教えるとおりに、悪に逆らい、裁き、罰するなどのことをまかせるがよい。ルターの生きた時代において、政治権力に対して徹底的な無抵抗を貫くということはプロテスタント教会にとって死を意味した。抵抗権という政治思想もこの時期から生まれるが、聖書が抵抗するなと命じていても教会の現実問題としてそれを受容することは勇気を要した。しかしルターは聖書の命令を文字通り受け止める。この結論に示されているような彼の発想がいわゆる二王国論からナチ受容へと向かったと批判することは容易である。しかしルターはあくまでも聖書に忠実であることを目指した。そのような彼の説教が今日においても決して古さを感じさせないのは、聖書を唯一かつ至高の権威として認めていたことに尽きる。ルターは、「聖書中心」ではなく「聖書のみ」を説教の基盤とした。そして聖書は絶対であり不変である。だから彼の説教の調子は終始力強い緊張感に満ち、その論旨に迷いはない。
だが、私は、あなたがたが外的にどのように統治すべきかでなく、神の前でどのように生きるべきかを教えているのだから、私の弟子としてのあなたがたにこう言いたい、あなたがたは悪に逆らってはならない。むしろあらゆるたぐいのことを忍び、あなたがたに不正や暴力をふるう人々に、まったく親切な心をもつようにすべきである。あなたから上着を取る人があれば、報復を求めるのではなく、むしろ、防げないのならば、マントまでも渡すのだ。(15)
この数世紀前の巨人は私たちに自問させる。私たち福音派は礼拝を信仰生活の中心とし、聖書の権威をすべての権威にまさるものとして告白する。しかし聖書に権威をおくといいながら、本文釈義よりも例話や人を惹きつける導入に心を砕く者がいかに多いことか。所与のテキストからいともたやすく離れ、他の聖書箇所の引用を乱発する者がいかに多いことか。聖書を主観的な経験や信念で曲解し、それを聖書の本来の主張として安易に適用してみせる者がいかに多いことか。みことばを通して真なる神の意図をまっすぐに説き明かすこと、それが宗教改革の聖書解釈である。このまっすぐとは、ただ与えられた聖書のみによって真摯に説教を語ることに他ならないことを私たちは覚えるべきであろう。
説教史家E.ダーガンは、ルターと並ぶ改革者カルヴァンについても「一言ごとに一ポンドの重さがあった(tot verva tot pondera)」というテオドール・ベザの言葉を引用しながら、次のように述べている。「高質の雄弁度をカルヴァンの説教に見出すことは出来ないが、その思想の力、意志の勢い、文体の良さ、そしてとりわけ、神の真理が彼の言葉を通して光り輝くように努めたその真剣さが、彼を大説教家に作り上げ、キリスト教信仰の大原理を、聞くものの心に深く植え付けたのである(16)」。
概して辛口の批評眼を持つダーガンをしてこのような賛辞を送らせたカルヴァンの説教の最大の特色もまた、まさに真剣さであった。説教者が聖書に徹するとき、真剣にならざるを得ない。ルター、カルヴァンといった宗教改革者たちの説教はそのことを如実に示している。しかし中世においてもかろうじて保持されつつ、改革者たちによって明らかに示された、この当たり前のことが当たり前になっていない時代が今や現にあるのだ。今日の危機的状況において回復されなければならない、その真剣さこそ、筆者が緊張という言葉で表現しようとしているものである。
脚注
(14) 泉田昭「聖書の権威と説教」、27頁。
(15) マルティン・ルター『「山上の教え」による説教(1530−32年)』(徳善義和・三浦謙訳)、「宗教改革著作集3 ルターとその周辺T」(教文館、1983年)、283頁。
(16) E.ダーガン著、関田寛雄監修、中嶋正昭訳『世界説教史U−14-16世紀−』(教文館、1995年)、171-172頁。