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緊張の説教論(8)「2-3.近現代における説教の緊張意識と権威の喪失」

 宗教改革が生み出したカトリックとプロテスタントの対立は、その後三十年戦争という悲劇的結末を迎える。その厄禍はあまりにも大きかった。そしてルターやカルヴァンが再発見した、神の言葉のダイナミズムは彼らの直系の子孫よりはピューリタニズムや敬虔主義に受け継がれたかに見える。特に説教における緊張意識という言葉は、ジョナサン・エドワーズを中心とするアメリカにおける大覚醒における説教を連想させやすい。彼の説教『怒れる神の御手の中にある罪人』の次のようなくだりはあまりにも有名である。
 邪悪さの故に、あなた方はさながら鉛のように重く、非常な重さと重圧のせいでまっしぐらに黄泉路を下るのです。もし神が御手を放せばたちまち落下し、底なしの深淵に急降下し没してしまうでしょう。すると、あなた方の健康な身体、気苦労、思慮分別、最上の計画、正しい振舞いの一切は、蜘蛛の巣が落下する石を止められないように、あなた方を支えて地獄に堕ちないようにする力を失ってしまいます。仮に神の至高の御心が存在しなければ、この大地はあなた方を一瞬も支えないでありましょう。(17)
 しかしここで決してエドワーズはいたずらに地獄のイメージを強調し、聴衆に恐怖感を与えようとしているのではない。彼の文学的とも言える説教の背後にあるのは、当時のピューリタンたちが彼らの伝統的契約概念を曲解していることへの危機意識であった。百年前に新大陸に移住してきた彼らは「アメリカン・イスラエル」を標榜し、そしていつのまにか共同体概念と救済概念が混同された。すなわち神との一対一の個人的関係ではなく、教会に所属することを救いとする協同契約の誤った理解である。しかしアメリカ・ピューリタニズム研究の第一人者である柳生望氏によれば、「彼の説くところは、救いは神の恵みの賜物で、救いは神の力によらねばならない」ということだった。「神は全能者で、神は怒り、そして人は完全に失われた存在である。これが彼の神学の支柱である(18)」。
 旧約預言者以来の数千年間に及ぶ説教史の中で常に保持されてきた緊張意識はエドワーズにおいては神の主権性という概念で裏付けられている。そこでは聴衆(会衆)はやはり第三者的でいることは許されない。それはかつての使徒的説教と同様、救いが今ここでイエス・キリストを信じるか否かにかかっているという急務性、緊迫意識に基づいている。エドワーズは語る。「今あなた方が享受しているような一日の機会を得るために、地獄に堕ちてしまった哀れな絶望した魂が差し出さないものがあるでしょうか!(19)
 それは協同契約の上にあぐらをかいている教会員に悔い改めを迫る。また野呂芳男氏は「ウェスレーの『標準説教』の中で地獄に少しでも関係しているものを求めても一つしかない」というウィルソンの分析を紹介しているが(20)、モラビア兄弟団のような敬虔主義運動にしろ、ウェスレーらのメソジスト運動にしろ、そこでもまた説教の緊張は必ずしも地獄の強調といった単純な内容で終わるものではなかった。それはその後のムーディやスポルジョンといった雄弁で通っている大衆説教者たちにおいても同様である。「緊張の説教」は、決して説教史の歴史的文脈から逸脱するものではなく、またプリミティブな恐怖感の強調による緊張などでもない。聖書が内包する神のドラマとしての緊張意識と終末論をないがしろにしない正統的神学概念から要請される、真の緊迫意識から生起するものであった。

 しかしフォーサイスが語ったように、説教はいつのまにか「人間的な文明の言葉を語り、キリストの言葉を語っていない」ようになってしまった。それはなぜだろうか。ロイドジョンズは言う。「ためらうことなく挙げ得る第一のことは、聖書の権威に対する信仰の喪失と真理に対する信仰の低下です・・・(中略)・・・聖書を権威ある神のことばと信じ、その権威のもとに語るとき、優れた説教が生まれるのです(21)」と。
 だが今や、「権威」という言葉は急速にその重みを失いつつある。エドワーズの伝統をもつアメリカにおいても、今日の説教で語られるのは聖書の「権威」よりも、聖書の「物語」であり、説教者の「体験」である。トロウガーはそのことについて以下のように語っている。
 「現代の説教(modern preaching)」はすでに承認されていた複数の権威を互いに調和させることを目指すものであったのに対して、他方、「ポスト・モダンの説教(postmodern preaching)」は現在の私たちの文化に浸透しているあらゆる権威に対する疑いのもとでなされる・・・(中略)・・・私たちが「より深い洞察力に満ちた見方」をもったり、「真理の『生身の重さ』を感じる」ようになる必要がある理由のひとつは、もし私たちの説教が現実の体験に根ざしたものでないならば、私たちが語ろうとする権威そのものが疑わしいものとみなされるようになるからである。聖書とか伝統に訴えることは、もはやそれ自体において十分な重みをもつものではないのである。(22)
私たちの説教の権威は、今や聖書そのものではなく、説教者の体験に基づくものへと変わりつつある!しかしこれは決してアメリカだけの話ではなく、日本の教会が陥りつつある問題をも示している。福音派と呼ばれている教会においても聖書の権威よりも説教者の体験や人格が優先されやすい現実を決して無視することはできず、今日における権威矮小化の状況を決して忘れてはならない。
 この権威の回復に緊張の説教論はどのような回答を与えることができるだろうか。次章においてはこの説教論の定義を、いわゆる説教の三要素を中心に試みてみたい。

脚注
(17) ジョナサン・エドワーズ『怒れる神の御手の中にある罪人(Sinners in the Hands of an Angry God)−申命記32章35節−』(飯島徹訳、CLC出版、1991年)、20-21頁。
(18) 柳生望「ニューイングランドの説教」、『説教者のための聖書講解−説教の課題と現実』、288頁。
(19) エドワーズ、前掲書、38頁。
(20) 野呂芳男「ウェスレーとメソジスト教会の説教」、『説教者のための聖書講解−説教の課題と現実』、213頁。
(21) D.M.ロイドジョンズ著、小杉克己訳『説教と説教者』(いのちのことば社、1992年)、20頁。
(22) T.H.トロウガー著、越川弘英訳『豊かな説教へ 想像力の働き』(日本基督教団出版局、2001年)、205頁。
posted by 近 at 10:15 | Comment(0) | 説教論
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