ドイツ教会闘争下、ヒトラーに抗した告白教会の代表的説教者であるハンス・ヨアヒム・イーヴァントは、説教者の責任について次のように述べている。
啓示の職務、神の言葉の職務によって我々に委ねられた責任は、まことに恐るべきものである。務めを果たすたびに、この宣教のわざをなすたびに、自分が今伝えているこの神の言葉は、いのちを与える言葉として伝えられているのか、それとも、人を殺す言葉としてであるかとの問いのもとに、常に立たせられるからである。死せる教会とは、殺された教会に他ならない。教会を殺す者は、説教壇に立っている。しかもそれを知らないのだ。(23)確かに今日の我が国において、教会はかつてのドイツのそれのように生死の瀬戸際に立たされてはいない。しかしながら、今自らが語っている説教が、聞いた者にいのちを与えるか、それとも滅びに留まらせるかを決定する!このような緊張感を、今日どれだけの説教者が共有しているのだろうか。教会のパンフレットは「みことばに立つ教会」「みことばを中心とする教会形成」といった言葉に彩られる。しかしみことばに立つとは具体的にどのようなことなのか。それは端的には説教を通してなされるものでなければならず、そうであればその説教はみことばから自明的に宣起される緊張を十分に語るものでなければならない。私たちが語る説教が聖書的であるとは、単に聖書の記述がそこで注解・解明されていればそれでよしということでは決してない。聖書テキストそのものの持つ、いのちか死かという緊張概念がその説教において十分に吐迫されているかということである。しかしそれはいかにして可能なのか。その答えはこうである
緊張の神学とは決して特殊な神学ではない。それが主張するところは、聖書が語っている真理は私たちに緊張を自発的に起こさせるということに過ぎない。だがそれが重要なのである。万物を保持し支配している宇宙論的なキリスト観に説教者が留まり続けるとき、聴衆は緊張をもって被造物の有限性と矮小性を自覚する。それはその有限かつ矮小な存在が自分自身に他ならず、神の御手に依存しなければ存在することもできないという事実を彼らが知るからである。あるいは人間は罪の力に何ら抗することができず、ただキリストの十字架のみにすがるほかないという真剣な救贖観は、説教者と聴衆との間に二千年前のカルバリの十字架を再現させる。私たちが語るにしろ聞くにしろ正しい救済論をそこで差し出し、あるいは受け取るならば、私たち自身がキリスト・イエスを十字架につけたという現実に緊張せずにはいられない。さらには終末論が正しく講壇において語られるとき、説教者と聴衆は今この瞬間にも主が来られるという緊張意識に覆われることであろう。
説教の原型とも言われる旧約預言者たちの言明と、今日の私たちの持つ弱々しい説教の言葉とのギャップは、この緊張意識の欠如ではないか。説教者は聞き手を慰め、励ますことを字義通りに受け止め、聞き手との緊張関係を忘れている。しかし私たちが聖書を顧みるならば、決して優しい言葉と語り口がそのまま慰め・励ましということではないことは明らかである。かつてイザヤはこのように語った。
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」神は冒頭でわたしの民を慰めよとイザヤに命じられる。何をもってか。もちろん神の言葉をもってである。しかしその「優しく語りかけよ」は決して単純な、柔和な響きの声をもってではない。それは「荒野に呼ばわる者の声」という不毛さの中で雄々しく叫び続ける声である。さらにその口に主が与えられた言葉は「すべての人は草、民は草」という有限性及び脆弱性の強調であり、それに対して「神のことばは永遠に立つ」というみことばの無限性と永遠性が明らかにされる。慰めや励ましは決して人間的な言葉でなされるのではない。民にとっては到底励ましとは思えないような言葉が語られたとしても、みことばが語られる緊張関係の中で、神は「わたしの民」とイスラエルに呼びかけられるのである。
荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」
「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40章1-8節)
だが今日、説教者はその意味で本当に「みことばを語っている」と言えるのか。パウロの言を借りるならば「神の言葉に混ぜものをして売る」多数の者の一人に含まれてはいないか。現代の教会に蔓延する律法主義的説教を分析したヨズティスは、今日の「説教をめぐる作業において決定的に欠けていることは、宗教改革の神学への顧慮である(24)」と述べる。説教者が聖書を語っていると公言できる資格は、聖書の中に鮮やかに息づき、私たちに応答を迫る事柄への弛まぬ神学的顧慮である。それをないがしろにするとき、説教は緊張を失い、その主張は単に聖書を題材とした道徳講話へと堕す。それがイーヴァントをして「教会を殺す者は説教壇に立っていて、しかもそれを知らない」と嘆かせた緊張感の欠如であり、椎名麟三に「知識ではなくいのちを」と懇願させた説教の貧困の実相であろう。この聖書を語ろうとする時、説教者は緊張せずにはいられない。それは説教者から発する緊張ではなく、聖書そのものから滲み出してくる緊張である。十字架の出来事が私たちに与える緊張的な神と人との出会いを無視し、愛や恵みといった言葉で簡単に代用してしまう時、その緊張は説教者によって殺され、神の言葉の説教も死に瀕する。フォーサイスの言葉を借りるならば「十字架から遠ざかって十字架に没入しなくなったから権威を失った(25)」説教を作り出してしまうのである。
ロイドジョンズは、リチャード・バクスターの有名な詩の一節「私はもう二度と語ることがないつもりで説教した/死んで行く者が死につつある人たちに語るように」を引用しながら、今日「私たちは聴衆のためにはいのちがけで、どんな犠牲を払っても、というこの(説教における)要素をなおざりにしています(26)」と述べているが、今まさに生死が決する瞬間がこの説教壇に訪れているという緊張を忘れてはならない。彼はまたすべての説教者に向けて、別の箇所でこうも語る。「あなたは一人の魂と神との間に立っています。そして永遠のことが取り扱われ、永遠の定めが決定されるのです(27)」。このような一回的な言葉を語ろうとするとき、誰が緊張せずにいられるだろうか!しかし繰り返すが、その緊張は説教者が意図的に緊張するといったものではなく、説教者が語ろうとする神の言葉そのものが持つ緊張によって引き起こされる事柄である。緊張の主体はあくまでも説教者でなく聖書の言葉なのである。クラウスはこのことについて、ルターの次の言葉を引用している。
もしも我々が、神が語り、神が約束し、神が迫ってくるということが何を意味するのかを、本当に真剣に考えることができるとすれば、私はあなたがたに問う。心の底からおののかない者がいるだろうか。偉大な言葉、大きくて恐るべき響き。神の言を見よ。・・・・恐れる者は幸いである。(28)説教者は説教で何を語るのか。もちろん聖書である。そして聖書を語るとき、そこには聖書から自ずと生まれる緊張が説教者だけではなく、聴衆にも影響を与える。それは権威なき時代における権威ある説教への糸口ではなかろうか。説教における権威とは決して人為的に作り出すような性格のものではない。聖書そのもののみから生じ、聖書以外からは決して生じ得ないものである。言い換えるならばそれは聖霊の働きに他ならない。説教が今まさに語られている場において、説教者を含めて人々は聖書の真の記者である聖霊に出会う。説教で語る内容とは、聖霊によって記された聖書の中に一統して描かれ、聞く者に緊張を与えずにはいられない「神の約束、神の緊迫」なのである。
脚注
(23) 加藤常昭『説教論』、74頁。
(24) M.ヨズティス著、加藤常昭訳『現代説教批判−その律法主義を衝く』(日本基督教団出版局、1971年)、209頁。
(25) フォーサイス『フォーサイスの説教論』、183頁。
(26) ロイドジョンズ『説教と説教者』、125頁。
(27) ロイドジョンズ『説教と説教者』、436頁。
(28) クラウス『力ある説教とは何か』、32頁。