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2014.8.10「あなたを認めてくださる方」

週報はこちらです。

聖書箇所 ヘブル人への手紙4:12-16
 12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
 14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

序.
 8月15日の終戦記念日が近づくたびに、私たちは平和の意味について考えます。
この2014年、集団的自衛権という大きな問題が日本と世界を駆け巡りました。
憲法改正に頼らずに、政府の決定だけでゴーサインを出すという、いわば禁じ手に国民の多くが反発しました。
首相は汗をふきながら、こう言いました。これは戦争ができる国にするためではなく、戦争を回避するための抑止力にするためだ、と。
しかしもともと憲法改正に賛成していた人々も、集団的自衛権には反発したことが、世論調査の結果からわかっています。
説明が十分にされないままに、大切な事柄が一方的に進められていくことに、人々は不安と怒りを感じているのです。

このことから私が思わされているのは、日本の政治が、いかにコミュニケーションが下手であるかということです。
周りの国々に対しても、外交のことばよりも軍事力で自分たちを伝えようとします。
そればかりか国民に対しても、ことばによる説明責任を果たそうとしない、というよりも説明する力が足りません。
今の日本の政治に足りないのは、ことばを通して考えを伝えるという基本的なことです。
しかしコミュニケーションがへたなのは、決して政治家だけではありません。
私たちひとり一人もまた、家庭において、学校において、極めて狭いコミュニケーションの中でしか生きていないように思うのです。

1.
 若い人たちの間では、FacebookやLINEのような、新しいコミュニケーションのスタイルが常識になっています。
私も部分的に利用してはいますが、しかしそれらはキーボードで打つ文章によるコミュニケーションです。
相手と目を合わせ、自分の口から言葉を出して思うところを伝えていくという、もともとのコミュニケーションはすたれてきました。
最近、知人が回転寿司に案内してくれました。
一昔前までは、回転しているベルトコンベアの中心にはそれでも板前が数人いて、特別な注文を引き受けてくれたものでした。
でも今はだれもいません。テーブルのタッチパネルで注文しますと、ご注文品と書いた皿がベルトに載ってどこからかやってきます。
入店から退出まで、一言も言わなくてもどんな寿司でも食べられます。こんな時代が来るとは思いませんでした。

だが便利になった代わりに、私たちは声を出して会話するという当たり前のコミュニケーションを失ってしまったようです。
これは決して、みなさんと無関係ではありません。
高校生のみなさんはこれから数年後には就職し、企業の面接を受けるでしょう。
人事担当者が面接の際に最も重視することは何でしょうか。
実際にアンケートをとった結果、7割の面接官が、コミュニケーション能力をみると答えています。
自分の考えていることを頭の中でまとめる。自分が思っていることを言葉にして伝える。
ここまでならフェイスブックやメールでも可能です。しかし自分の考えを伝えるだけではなく、相手の考え方を知り、相手の思いを探っていく。
それは目を見つめ、声の背後にある感情をつかみ、熱意を共有したり、悲しみに共感したり、そういう力が今、求められています。
もし私たちにそれができないようであれば、ことばを語ろうとしない政治家たちをだれも批判することはできないでしょう。

2.
 コミュニケーションとは何でしょうか。それは今自分の目に映っている人が「私とあなた」という関係で自分と繋がっていることを認めることです。
でも黙っていたら、つながりはそれ以上広がっていきません。だから言葉を使います。口を使います。目を使います。からだのすべてを使います。
「私はあなたに興味があります。あなたをもっと知りたいと願っています。だからあなたに私という人間を伝えます。
あなたも私にあなたの考えていることの広さ、深さを教えてください」。これがコミュニケーションです。

 25年前、私も敬和学園高校に入学して、そこで三年間を過ごしました。今振り返ってみますと、めんどくさい学校だったなあと思います。
中学生の頃、人間関係で傷ついていた私は、高校ではなるべくひとりで行動したかった。だが敬和ほど、ひとりになれない高校はありません。
フェスティバルだの、全校労作だの、讃美歌コンクールだの、ひとりだと何も進まないようなイベントが多すぎます。
でも敬和の中で唯一ひとりになれる時間がありました。それが毎日の朝の礼拝の時間です。
礼拝が始まる前の5分、10分、また約30分の礼拝そのものの中で、私はひとりになって自分を見つめることができました。
しかしそれを三年間くり返してわかったのです。
ひとりになって自分を見つめるということは、自分の中のもうひとりの自分を見つめるということです。
そしてそれができないと他の人を見つめることも、他の人を大切な存在として受け止めることもできないのです。

敬和のみなさんは、どうかこのことをおぼえてください。
みなさんがこれからの人生で必要とするものは、すべて敬和の三年間で手に入れることができます。
だがそのためには、周りに合わせることよりも、自分がひとりになって、自分自身と向き合うという時間を大切にしてほしい。
それが毎朝の礼拝です。
そしてこの夏休みの礼拝出席は牧師のサインをもらうことが目的ではなく、あなたが自分をさらに見つめていくためのものなのです。

3.
 ひとりになったとき、すべての鎧を外した、裸の自分が見えてきます。
そして裸の自分がいかにちっぽけで、たよりないものであるかに気づきます。
私はひとりになったとき、その事実におびえ、不安に襲われました。
だが敬和の礼拝を通して知ったのは、自分のちっぽけさだけではありませんでした。
そのちっぽけな自分を見つめ、呼びかけている方がおられるということです。

神は、目に見えない、巨大なエネルギーではありません。人間が作り出した妄想でもありません。
あなたと同じように心を持っておられます。喜ばれ、悲しまれ、痛まれ、傷つかれます。そしてあなたの心を何よりも知りたいと願っておられます。
あなたの苦しみに代わって自分が苦しまれてでも、あなたの喜ぶ顔が見たいと願っておられます。
それが私たちの救い主、イエス・キリストなのです。二千年前、神は人となって地上に来てくださいました。
聞いたことがあるでしょう。クリスマスの夜、馬小屋にイエス・キリストが生まれたという話を。
馬小屋は、事実であり、そして象徴でもあります。神ご自身が人となって馬小屋に生まれました。
それはあなたのために、私はどんな汚いところにでも、どんな苦しいところにでも行くよというイエス・キリストのメッセージを表しています。
そしてイエス・キリストが向かっていったのは十字架につけられて犯罪人として死んでいくという道でした。
イエスはまったく罪を犯されない方であったのに、犯罪人として十字架で死んでくださいました。
それは、本来私たちすべての人間が受けるべき十字架での刑罰を代わりに引き受けてくださったということなのです。

結.
どうか今日の聖書の言葉をおぼえてください。
神のことばは私たちの心を裸にします。自分の心を裸になって見つめたとき、どれだけ弁解しても自分が罪人であることを認めざるを得ません。
でもそこで終わりではありません。あなたの罪がさばかれる、その身代わりとなって死んでくださったのがイエス・キリストです。
あなたの良いところも、汚いところもみんな知っておられます。その上で、私たちのために命を捨ててくださったのです。
どうかひとり一人が、この方を心に受け入れて歩んでいくことができるように。
posted by 近 at 08:48 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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