真剣勝負という表現に含まれているのは、緊張であり、集中である。緊張とは言うまでもなく、硬くなることではなく、関係が張り詰めることである。しかもそれは<ゆるみ>と<張り>の共在が造る力動的な関係である。この場合には、まず説教者と聞き手との間の緊張関係であり、さらに根元的には聖書の言葉との緊張関係であり、神の前にある緊張感である。神が語られるのを聴くところに生まれる緊張である。(29)筆者がかつて説教演習の際に「間がない」と批判され、「落語じゃあるまいし」と心の中でつぶやいた経験を先に述べた。しかし「<ゆるみ>と<張り>」とはまさに落語の名人芸に通じるもののようにも思われる。名人が数分の演題に気の遠くなるような修練を重ねるように、説教者もまた神の言葉を語る際に修練を欠かしてはならないということだろうか。だが加藤氏は別のところでこうも述べている。「ただしこれは、説教者の単なる雄弁家としての技巧が生み出せるようなものではないであろう。神のみまえにおける畏敬と信頼のこころ、自分を生かす恵みに対する信頼から生まれる自由のこころが生み出すものである。神の子たちの祭典である礼拝にふさわしい緊張なのである(30)」。 重要なのは、神の言葉の前に集中するということであろう。否、説教者が主体的に集中しなければならないというよりは、彼が神の言葉の力に信頼するとき、その前に自ずと集中させられるといった方がよいかもしれない。これらの一連の加藤氏の指摘に呼応するかのごとくに、渡辺信夫氏もユニークな表現でこう述べる。
説教者のそのような緊張は、しかし聴衆に対しては苛酷な緊張を強いるのではないかという疑問を耳にすることがある。答えは容易である。オーケストラの指揮者は、一時間なり二時間なりの大曲を指揮する間、一瞬もその緊張を解かない。聴衆も緊張の持続を強いられる。が、それは彼らにとって苦痛ではなく、むしろそれでこそ大曲をエンジョイできるのである。(31)この説教者の緊張(それは同時に聴衆の緊張でもあるのだが)が終始持続するような説教はいかにして可能となるのだろうか。私たちはやはり聖書からその答えを求めるべきであろう。パウロは自らを「救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおり」(第二コリント2:15)とたとえ、「このような務めにふさわしい者は一体だれでしょう」(同16節)と自問し、その答えとして次のように自ら結論づける。
私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前で、キリストにあって、語るのです。(17節)新共同訳では「真心から」を「誠実に」と訳している。神の言葉を語る者は、みこころを誠実に探り求めながら語らなければならない。それは今日的状況においては聖書テキストが語っている主張を誠実な釈義的努力をもって掘り下げていくという意味にも解せるし、聖書が聴衆の必要に即した答えをもっているという確信をもって生きた言葉として語っていくということになるかもしれない。
しかしパウロのこの言葉に目立つのは言うまでもなく「神」という言葉である。説教は「神によって」「神の御前で」「キリストにあって」語る。「神によって」「キリストにあって」という言葉に説教の真の語り手は神ご自身であるというテーゼを見いだすことも可能だが、しかしパウロが真に言いたかったのは「神の御前で」ということではなかろうか。多くの偽教師たちはその(偽)説教の場が他ならぬ神の御前であるという事実をまるで顧慮せず、神の言葉に混ぜものをして、しかも語るのではなく「売っている」。しかしパウロたちは違う。今まさに説教が神の御前でなされ、神がそれを聴いておられることを自覚しつつ、その緊張関係の中で語り、さらにその緊張は説教そのものが「神によって」「キリストにあって」という内在的緊張へと聞き手を巻き込むのである。
それは「神の御顔の前に(coram Deo)出ること」とカルヴァンが強調し、また金子晴勇氏が言うところの「『人々の前』から離れて、私たちが『神の前に』立たされたときの出来事」であろう。説教者は会衆を前にして語り、会衆は大勢の聞き手の一人としてそれを聞く。それにもかかわらずそれは神の御前での出来事であるとはどういうことか。金子氏は言う。「それは人間的可能性を越えた神的可能性によって生じるため、適切にも聖霊の働きに帰されている。・・・(中略)・・・神的可能性にいたる唯一の通路は説教者をとおして私たちに語られる神の言葉であって、これを聞くことにすべては賭けられている(32)」。ルターの有名な言葉を借りるならば、「私はここに立つ。他にどうすることもできない。神よ助けたまえ」という一途な緊張が、その説教が語られる場において説教者と聴衆に自覚的に求められるのである。
かつてロイドジョンズは、説教者を志す人々に「自分にはほかのことは何もできないと感じること(33)」が重要だと語った。しかしそれは決して説教者だけに当てはまることではない。会衆もまた、その説教の場において、この一事に賭けることが求められている。加藤氏はパウロが手紙の中で「私」について頻繁に語った事実に触れつつ、説教者の存在について次のように述べている。
パウロの使徒としての<私>を消すことができなかったとすれば、われわれもまた、説教者の<私>を消すことはできない。われわれ説教者としても使徒としての私を消すことはできず、むしろ、私の全存在をもって言葉と化することが求められている。そして、それは、聴く者にも求められる。全存在を耳と化して聴くことが求められているのである。われわれの説教が説得力を欠くときには、何よりも、そのような意味における、<存在の言葉>として説教が語られていない場合が多いのではなかろうか。(34)信徒が牧師に寄せる声として、牧師(説教者)が、その彼が語るみことばを実践して生きてほしいということがよく言われるという。牧師子弟が親に躓く理由も、日曜日に語っていることと残りの六日間の生活との乖離への幻滅が大きいという。重く受け止めなければならない事柄ではあるが、説教者がみことばの通りに生きているかということがもしそのような日常生活レベルでしか受け止められないとしたら、まことに残念なことである。説教者がみことばの通りに生きているかどうかは、やはりみことばを語っているときにこそ現れるのではないか。みことばが与える緊張感、それが説教の時にまさに説教者の全存在を賭けた言葉として現れているか。そして会衆もそれに自らの存在を賭けて聴いているか。みことばの実践とは礼拝後や自宅に帰ってからの問題だけではなく、その場その時において第一になされるべきである。説教者は、そして会衆は、それだけの広さと深さをもってみことばを語り、聴いているかということを常に自問すべきであろう。
脚注
(29)加藤常昭『愛の手紙・説教』、82頁。
(30)加藤常昭『説教論』、468頁。
(31)渡辺信夫「説教者の姿勢」、『説教者のための聖書講解−説教の課題と現実』、80頁。
(32)金子晴勇「信徒の説教論」、『説教者のための聖書講解−説教の課題と現実』、73頁。
(33)ロイドジョンズ『説教と説教者』、152頁。
(34)加藤常昭『愛の手紙・説教』、287-288頁。
牧師は、特に会衆派教会では、信徒にすりよる、政治的に言えば悪い意味でのポピュリズム牧会に陥りやすいと思われます。
「みことばの実践とは礼拝後や自宅に帰ってからの問題だけではなく、その場その時において第一になされるべきである。説教者は、そして会衆は、それだけの広さと深さをもってみことばを語り、聴いているかということを常に自問すべきであろう」ということはそのとおりであり、未熟な信徒が牧師を批判することにいちいち気を取られていたら牧師の仕事など誰も務まらないでしょう。それこそストレスで大病するのがオチです。
牧師は、自分ができないことをも大胆に語る勇気が必要かと思います。それが聖書を神のことばとして語る上で必要な心がまえでしょう。
自分が聴く努力もせずに、ただ、説教が難しいなどと言う信徒には、牧師は嫌われ覚悟で厳しく指導することも大切だと思います。でも多くの牧師は信徒に嫌われることを恐れるのです。なるべく愛され、尊敬までは求めないにしても、批判は避けて、和気あいあいとやってゆきたいもの。でも、そこに説教を単なるお話にすり替えるサタンの誘惑が潜んでいます。福音に根差した、特に講解説教は、牧師が十字架に磔にされた思いでしかなしえない命がけの勝負なのでしょう。シャーローム
拙文を衆目にさらし、お恥ずかしい限りですが、それは「自信」ではなく、説教に携わる者への「自戒」として公開しております。
ご指摘くださったとおり、どんな牧師であっても、説教はポピュリズムに堕してしまう危うさがあります。
コメント頂いたことを心に刻みつけて、歩んでいきたいと願います。