説教もまた、礼拝の中心である以上、それは神の行為であると同時に、神が私たちに許し給うた奉仕であるということができる。言い換えるならば、説教は神から人間に対する「上からの言葉」であると同時に、神に向けてささげられる「下からの奉仕」でもある。その意味において、今日の福音主義を標榜する教会においてさえ、説教の礼拝論的位置づけが曖昧であると言わざるを得ない。すなわち説教を神から私たちに与えられた言葉として一元的のみに捉えることによって、説教が神に捧げられるものであるという感覚が欠落してしまったのである。その結果は何であったか。会衆に対して、自分の主観や主義主張を神のことばとして押しつける説教者と、消極的な聞き手の立場に徹する会衆の姿である。
しかしそれは歴史的に正しい姿ではない。フォーサイスはこのように語る。
説教は、その何たるかを知るプロテスタンティズムでは、つねに礼拝に必須な部分とみなされてきた。それは、神より出でて神を告白し、神へと還る福音のみ言である。説教は実際には人間に語りかけられるが、本当は神に献げられる。これが説教の真の特質である。・・・(中略)・・・使徒たちは説教しないではいられなかった。説教は、使徒たちが、自分を捉えた恵みのみ言に対して感謝と賛美をもってする応答の本質的部分であった。(36)説教は神に捧げられるものであると同時に、説教者にとっても応答の行為であった。説教を聴いた会衆だけが応答するのではない。説教者もまた語りながら応答しているのである。 このことは何を意味するのであろうか。端的に言えば、私たちが今日考えている応答の意味を再確認する必要があるだろう。「応答の献金」「応答の賛美」「応答の祈り」そして「応答の生活」。これらは聖書的、神学的によく吟味しなければならない。応答とは何なのか。説教を語り、あるいは聴き、その説教が終わった後から応答が始まるのか。それとも説教の間に応答が開始されているのか。
説教批評の学問的手法確立を志したハイデルベルク・グループは、説教を第一印象の一種の止揚的営為として定義したが、加藤氏はその成果を受けてこのようなコメントを与えている。
礼拝における説教聴聞は第一印象の連続である。つまりそこで初めて説教の言葉に出会う。説教が説く聖書の言葉に出会う。そして、そのことを通じて神の言葉を聞き、神を礼拝するに至る。説教が終わると同時に、その説教は完結する。それまでに、まず重要なことが起こってしまっているのである。そのあとに起こることは、この根元的な説教との出会いが残す波紋のようなものである。(37)注意しなければならないのは、ここで言われていることは決して説教に対する応答の軽視ではないということであろう。福音主義教会では説教が語られ、その次に賛美や献金が行われる。その背後にある応答の概念が「波紋のような」些細なものであるということではない。加藤氏の師ボーレンはインタビューの中でこう語る。
説教は、この会衆のアーメンによってはじめて終わる。私自身では説教を終わらせることができないのです。この終わらせるというドイツ語は、完成させるという意味もある。会衆が説教を完成するのです。そしてこのことがすっかり忘れ去られていると思うのです。これが今強調されなければなりません。(38)説教とは、神にささげられるものである。しかしそれは説教者と会衆とが一つの心になり、説教の中で両者が交流しながらささげられているという対話的要素をボーレンらは強調する。もちろんそれはアメリカの黒人教会における礼拝のように、説教者に会衆が始終声をかけながら進めていく説教を直接指すのではない。それは常に説教者に次のような問いをもたらすものである。
それは説教者の独りよがりの漫然とした説教ではない。セミナリーで学んだ神学的知識をひけらかすだけの説教でもない。会衆がみことばの力の前に緊張せざるを得ないような、力ある説教である。その言葉の前に自らが神に依存しなければ立ち果せないことを自覚させる力ある説教である。クラウスはそのような説教は「具象的な言葉」から生み出されると訴える。具象的とは、会衆の現実に即した言葉、会衆が自らの罪の現実に気づかざるを得ないような言葉であると言えよう。
具象的な言葉から、生ける神の人格的な「根源的なわたし」(Ur-Ich)があらわれ、人間に語りかけ、全権的説教の中で起こるあの出会いを生み出す。筆者が「緊張の説教」と呼ぶような説教は、このような、説教者と会衆が共にマラナタと霊において対話しつつ、神にささげるものだと考える。ボーレンは神を「説教の第一の聞き手」と呼び、このように語る。神の臨在の宣言や厳粛な呼びかけとしてなされる「神はここにおられる」との叫びによって、つまり大声をはり上げながら神を呼び出してみせることによって、この出会いがうみ出されるのではない。その出会いは聖霊のわざである。そしてこの聖霊を乞い願うことが全教会員のつとめであり、使命である。(39)
説教者がその方について語っているその方ご自身が、まず第一に、説教することと聞くこととを待っておられるのである。神が待っていてくださるということの中に向かって、われわれは説教の準備をする。・・・(中略)・・・われわれの説教は、神ご自身によって期待されていた語りかけなのである。(40)説教の応答は、すでに説教の最中になされている。私たちが語り、聞くことそのものが説教の応答であると言える。それは決して消極的なことではない。私たちは御霊を乞い求めつつ、説教を語り、そして聞く。そしてそれは散漫や退屈といった感情を抱くことさえ許さない、聖霊を待ち望む緊張の瞬間であるとは言えないだろうか。パウロは言う。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。(ロマ8章26,27節)歴史の中に息づいてきた緊張の説教とは、卑しい人間の口から出る言葉さえも聖霊によって人々の心に届き、説教の終わりになされる会衆のアーメンも聖霊によってのみ告白することができるという緊張感から生み出されてきたものである。説教が説教者と会衆によって神に捧げられるとは、その緊張感の中での出来事に他ならない。正しき神学理解のもと、それが緊張的に指し示すイエス・キリストが語られ、この一事に賭けるという説教者と会衆の対話的緊張関係の中で、聖霊のとりなしのもとに礼拝の主である父なる神にささげられる。その意味で緊張の説教は三一的説教論とさえ呼ぶこともできるかもしれない。しかしこの緊張の説教論は、バルトが説いた『神の言葉の神学』とどこが異なるのか、という疑問も提示されよう。次章では、このバルトの説教論との比較を中心に、緊張の説教論が今日の権威喪失と宣教的閉塞状況に対して与えることのできるものを模索する。
脚注
(35)関川泰寛『聖霊と教会−実践的教会形成論』(教文館、2001年)、115頁。
(36)フォーサイス『フォーサイスの説教論』、98頁。
(37)加藤常昭『説教論』、503頁。
(38)R.ボーレン著、加藤常昭訳『説教学U』(日本基督教団出版局、1978年)、421頁。
(39)クラウス『力ある説教とは何か』、96-97頁。
(40)R.ボーレン著、加藤常昭訳『説教学T』(日本基督教団出版局、1977年)、35-36頁。