最近の記事

2014.8.24「私が牧師になった理由(わけ)」

週報はこちらです。

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙2:20
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

序.
 数年前、敬和学園大学に依頼されて、第一回卒業生として、大学ができたばかりの頃についてお話ししたことがあります。
体育の授業が必修なのに、体育館がない。そこで地元の中学校のぼろぼろの体育館を使わせてもらっていました。
ところがそこに行くために乗るバスも敬和高校からの払い下げ。借り物だらけの、とにかくあれもない、これもないの大学だった、と。
メッセージが終わって帰るとき、一人の学生が声をかけてきました。彼は「自分も高校、大学どっちも敬和です」と紹介して、こう言いました。
「ぼくはクリスチャンじゃないけど、敬和学園高校の礼拝の時間が大好きでした。
讃美歌を歌い、聖書のお話を聞いて、そこから一日を始める、あの敬和の三年間が大好きでした。
でも敬和学園大学は、週に一回しか、礼拝の時間がありません。せっかく入ったのに、そのことにがっかりしているんです」。

 でもそのとき、私は彼に厳しく答えました。「だったら、そういう仲間を集めて、毎朝自主的な礼拝を始めたらいいんじゃないか」。
彼は「そんなの無理だ」という顔をしました。でも23年前、敬和学園大学が始まった年、私はそれを実際に行ったメンバーのひとりだったのです。
そのころの私は、授業がなくても平日は朝8:00までに学校に行き、空き教室で小さな礼拝をささげていました。
たった数人の礼拝でしたが、それでも四年間、学校が空いている平日は一日も欠けることなく続きました。
はじめに讃美歌を一曲歌ったあと、聖書を一章、みんなで読み、私が短く解説をします。
当時の宗教部長や、キリスト教学担当の先生も毎朝来てくださって、大学の夢や課題について最後に分かちあって、みんなで祈ります。
今はもうとっくになくなってしまいましたが、いつかこれが復活することを私は祈り続けているのです。
敬和の学生さんたちが夏休みに教会に来られるたびに私はこう願っています。
ここから幾人かでも敬和学園大学に進み、どうか毎日礼拝がささげられる大学にしてほしい、と。

1.
 私が牧師という仕事を目指すようになったのは、この学生生活が出発点でした。
当時、その礼拝に集まっていたメンバーは、大学の先生以外は、私を含めてまだ信仰をもって間もない学生ばかりでした。
聖書を読んでもわからない。そんな中で、私がその日の聖書箇所を短く解説するということが習慣になりました。
そのために、授業がないときにも図書館で聖書を勉強しました。
そんな生活を続けていく中で、将来も聖書を教える仕事につきたいという思いが与えられました。

 牧師になるためには、卒業後も、神学校というところで3年間勉強して資格をとる必要があります。
そのためには学費、生活費を稼がなければなりません。そこで私は、大学3年生になったときに、公務員試験の準備を始めました。
貯金のためだけであれば、公務員にこだわる必要はないのですが、
私は、自分自身も障がい者として、同じ障がい者を助けるための福祉行政に関わりたいと思っていました。
試験の結果、私は地元の市役所に勤めることになりました。配属されたのは希望した障がい福祉ではなく老人福祉でした。
障害を持つゆえに人の痛みがより強くわかるはずという自負を持っていた私は、神様が自分にぴったりの職場を選んでくださったと喜びました。

 しかし老人福祉について働き始めて、すぐにわかりました。
障がいを持つ人の痛みがよくわかるという自負は、介護に疲れ果てて、窓口を訪れる人々に対してはまったくの無力でした。
足を切断したことや何年かの闘病生活の経験などは、寝たきりや認知症となった親を抱えている人々にとって、何の励ましにもならないのです。当時、私たち福祉課の職員が口にしない日はない二つの言葉がありました。「2年間」と「800人」です。
親の介護に疲れ果て、特別養護老人ホームへ申し込んできた方々に、私たちはいつもこう言います。
「入所を申し込まれても最低2年間はお待ちいただくことになります」。さらに「今、入所の順番待ちをされている方が、800人おられます」。
そして最後にこう言います。「それでも、お申し込みになられますか」。受付の丸椅子を蹴り飛ばして行かれる方もおられました。

2.
 日中はとぎれることのない窓口相談でへとへとになり、本来の仕事である、書類作りなどは平日の残業や土曜出勤でようやく終わらせる。
その忙しさの中で、私のからだもたましいも疲れ果てました。勤め始めて二週間後、私は受洗後はじめて日曜礼拝を休みました。
そしてその回数はだんだんと増えていき、半年が過ぎる頃には、礼拝欠席を心配して電話をかけてくる牧師にも居留守を使うようになりました。
 それは私にとって、本当に苦しい時期でした。でも今思うと、私を牧師にするために、神様はこの苦しい時期を与えられたと確信しています。
私が大学生のときに牧師の道を志したのは、私の決断のようですが、しかしじつは神様が私に与えてくださった使命です。
そのときの私は、学費さえあれば神学校へ行き、牧師になれると思っていました。
でも神様は、私に欠けているものをご存じでした。苦しみの時期は、私にその欠けているものに気づかせるためのものでした。

 では、私に欠けていたものとは何でしょうか。それは、神様の前に裸になって近づくということです。
当時はわかりませんでしたが、私は仲間に聖書を教えながらも、神様そのものではなく、神様が与えてくださったものに依存していました。
具体的にいうならば、それは、人々に必要とされているという満足感、あるいは私への評価や、自分がつくりあげてきた実績です。
大学では「勉強も、聖書研究も、一生懸命にがんばっている学生」という評価の中で生きていました。
教会では「礼拝の司会、教会学校、トラクト配布、何でも積極的に奉仕する青年」という評価に酔っていました。
神様は私を通して色々な実績を得させてくださいました。でもそれはいつのまにかプライドになって、私の心を高慢にしていたのです。

 でも社会人生活の中で、自分のからだも心も疲れ果てて、何もできなくなってしまったときに私は気づかされました。
自分は人前だけでなく、神様に対しても、心を鎧で隠さなければ近づくことができない者になっていた。
「私はこれだけがんばっています、これだけの評価を得ています、だからあなたを私を喜んでくださるでしょう」、と。
でも何もできなくても、・・・・何もできなくても、神様は私を喜んでいてくださるのだということに、そのとき私は気づかされたのです。

3.
 苦しみのただ中において、突然私の心に聖書のことばが迫ってきた経験をしました。それは今日の聖書箇所です。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。
そのとき、こう思いました。もう自分はキリストから離れられないのだ、と。
私はあらゆることが重荷でした。教会が重荷でした。神様に従うことが重荷でした。クリスチャンとして生きていくことが重荷でした。
でもどんなに自分がそれらを重荷だと考えていたとしても、もう自分の中にキリストが生きておられる以上、捨てることなどできやしない。
そのとき、本当に不思議なことですが、私の心の奥底から、喜びがわき起こってきたのです。そしてこう思いました。
クリスチャンであることを捨てられないのなら、できることはたったひとつ、クリスチャンであることをとことん楽しむしかない

 私が背負ってきた重荷は、イエス・キリストそのものではなく、自分で作った「クリスチャンはこうあるべき像」でした。
私は自分がイエス・キリストに必要にされていると思っていました。必要とされているからこそ、あれもしなきゃ、これもしなきゃと焦っていました。
でも神様は、すべての作り主であり、すべての所有者です。人間の助けを借りなければできないということは、神様には決してありません。
私が必要だからではなく、私を愛しているから、神様は私をご自分の働きのために用いてくださるのです。
だから焦る必要はないし、何もできなくても恥じる必要もない。何もできなくても、決して神は責めることもなさらない。
私には何も誇るべきものはない。でもこんな私のために、神の子イエス・キリストは命を捨ててくださったのだ。
そしてこんな私の中に住んでいてくださる。しかも決して何があっても離れることはない、と言ってくださる。

 今もそのときの感動と確信は変わりません。もし私が何もできなくても、神様の態度は何も変わりません。
大事なのは「私は神様のために何をしたか」ではなく、「神様が私のために何をしてくださったか」です。
毎日、神様の前に祈るたびに、自分の鎧をひっぺがしてください、と私は祈ります。
たった今生まれたばかりの赤子のように、あるいはこれから天国に旅立つ死者のように、
何も持たず、何も誇りとせず、それでも神は私を愛しているという確信の中にとどまって歩ませてください、と。
posted by 近 at 20:56 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。