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2014.9.28「キリストこそいのちの種」

週報はこちらです。

聖書箇所 マタイ18:12-14
 12 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
13 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
14 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

序.
 今日の週報の表紙にも印刷しておきましたが、敬和学園高校の校門には、「明日」という詩が彫られた石碑があります。
 はきだめにえんど豆さき
 泥池から蓮の花が育つ
 人皆に美しき種あり
 明日何が咲くか
 敬和は大半がバス通学なので、学生は毎日この石碑を近くで見ているわけではありません。
しかしその言葉は、敬和学園の教育方針全体に確かに影響を与えています。
「人皆に美しき種あり」。
それはたった一匹の迷った羊のために、99匹の羊をそこに置いて野山の隅々を探し回る羊飼いイエス・キリストのことばを思い起こさせます。
たとえ話では羊ですが、実際には人間を対象にしています。
「ひとりのために」すべてを費やし、「ひとりのために」いのちを捨ててくださったイエス・キリストの愛が、この「明日」という詩の中にも現れています。

1.
 私は今から25年前、21回生として敬和に入学しましたが、それまでは上級生の教室ほど校舎の下のほうにあるという決まりでした。
つまり3年の教室は1階、2年は2階、1年は3階。
しかし私が敬和にいた三年間だけは、私の学年、つまり21回生は3年間通して、いつも教室が一階でした。
私が足に障がいを持っていたからです。でもじつは「ひとりのために」という敬和の教育はもっとすごかったのです。
私の入学が決まると、敬和は校舎の一階から三階までの階段に、手すりをつけてくれました。
入学する前、その取り付け工事のために学校に来てくれと言われて、母親と二人で学校に行きました。
手すりを取り付ける高さを私の身長に合わせてくれたばかりか、握り棒の太さも私の手の大きさに合わせてくれました。
そのときにある先生が私にこう言いました。「近君は、意外と手が大きいよね」。今もおぼえていますし、一生忘れることはないでしょう。

 「人皆に美しき種あり」。だからこそ、一人のためにどんな犠牲を払っても惜しくはないという教育が敬和にはありました。
ただ、このことばをただのヒューマニズム、人間愛の言葉として受け取って欲しくないとも思います。
「人皆に美しき種あり」、それは、どんな人でも生まれながらに美しいものを持っているという意味ではありません
「人皆に美しき種あり」。その美しき種は、信じたとき、神が私たちの中に植えてくださる種です。
人の中に生まれつき備わっている種ではありません
聖書は、むしろこう言うのです。ローマ3章28節にこうあります。
「すべての人間は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」と。
私たちは「罪」という言葉を小さく見積もってはなりません。
「すべての人間は罪を犯した」というのは灰色ではなく、真っ黒という意味です。
本当は真っ白なものなんだけど、罪をもって生まれてくるから灰色なんだという意味ではないのです。
心が真っ黒であり、どんな良い行いやことばも、その真っ黒を薄めることさえもできないほど、真っ黒なんだということなのです。

2.
 あるクリスチャンがこう言っているのを聞きました。
「日本人には罪という言葉がわからない。だから「罪」ではなく「不完全」と言い換えたら、わかってもらえるんじゃないだろうか」と。
そうすると聖書の言葉はこうなります。「すべての人間は不完全なので、神からの栄誉を受けることができない」。
でも「罪」と「不完全」は似て非なるもの、と言えるでしょう。
たとえば「このマイクは不完全です」と私が言ったらみなさんはこう考えると思うのです。
一応マイクとしての機能は持っているけれど、ときどき音が出ないことがある、と。不完全という言葉には、そういうニュアンスがあります。
しかし聖書が私たちに言っている罪とは、完全に少し足りないではなく、何も良いところがないという徹底的なものなのです。
すべての人間は、罪人として生まれてくる。それは灰色な人間として生まれてくる、という意味ではありません。
真っ黒です。どんな修正液でも白くできない、真っ黒に汚れきっています。
徹底的に汚れています。徹底的に直しようがありません。徹底的に変えられません
それが生まれつきの人間の姿であり、罪人と聖書がいうすべての人間の姿です。

 聖書が語る、このような罪観は、決してこの世の人々には受け入れられないものです。
そのためにあの詩の言葉さえも利用されることでしょう。
「人皆に美しき種ありというではないか。どんな人間も、真っ黒ではない。どんな人間も、わずかなりともよいものがある。
100%の善人はいないかもしれないが、100%の悪人もいないはずだ」と。
しかし、もし私たちが真っ黒ではなく灰色で生まれてくるのであれば、イエス・キリストが十字架で死ぬ必要はありません
自分の中に眠っている、そのひとかけらのよいものにしがみついていけばよいのですから。
しかし聖書が言うのは、イエス・キリストは罪人を救うために十字架で命を捨ててくださったということです。
人間にはどうすることもできない、真っ黒な闇が私たちをてっぺんからつま先まで支配しているのです。
私にはどうすることもできないのが罪の力だからこそ、罪を知らないお方が身代わりになって死んでくださらなければならなかったのです
自分が真っ黒であることがわからない、せいぜい灰色でしょとうそぶくような者だからこそ、イエス・キリストが命を捨ててくださらなければ、決して救われることができなかったのです。

3.
「人皆に美しき種あり」。それはすべての人が生まれつき美しいものを持っているということではありません。
イエス・キリストを救い主として信じるとき、どんな人でも、その人生に花開かせる種を神様から心に植えられるということです。
イエス様は、信じた者の心の中に永遠に住んでくださると約束しています。
何も生み出すことのできない、汚れた土壌が私たちの生まれつきの心です。
しかしイエス・キリストだけが私を救ってくださると信じるとき、その心はあらゆる良いものを生み出す肥沃な土壌に変わります。
「人皆に美しき種あり」、そうです、例外なく、だれもが変わり得ます。
「明日何が咲くか」。私たちは、キリストを信じるとき、あらゆるものを生み出すことができるものになります。
何が咲くだろうかと、神様も本人も期待していく人生へと変えられていくのです。

 今日、イエス・キリストが私のために十字架で死んでくださったことを心に刻みつけましょう。
私たちがどうすることもできない心のために死んでくださったお方を。
罪によって黒く凝り固まってしまった心を完全にきよめるために、命を捨ててくださったイエス様を心に受け入れましょう。
周りの人々や家族や社会を非難するよりも、まず自分の心の醜さを見つめましょう。
そして自分にもいいものがあると、醜い心を美化することをやめましょう。
100%罪のかたまりであった私たちを救うために、イエス様は死ななければならなかったのです。
迷子になった1匹のために、99匹を残した探しに行った羊飼いの向かった先は、血に染まった十字架でした。
失われた1匹、いや「一人のために」命を捨ててでも愛し、愛し抜かれたイエス様をどうか心に受け入れることができますように。
posted by 近 at 17:45 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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