前章で、「緊張の説教」の三一的定義を行った。従前の説教論が「聖書・説教者・聴衆」という三要素を重視するように、緊張の説教においてもそれらが本来指向する「何を・誰が・誰に」語るのかという枠組みを決して無視しない。しかし従前の説教論においては、説教者と聴衆を一種の対極状態に置き、両者の礼拝内位置を説教に対する「取り次ぎ」と「応答」という行為に特化してしまう。しかしそれは説教者の応答を軽視し、聴衆の説教参与を受動的なものに留まらせるという弊害をも内包している。それに対して、緊張の説教は、説教を総体として神による還元的行為として定義する。説教者も聴衆も神に言葉を与えられ、同時にそれを神に再びささげる。その応答は説教の中で既に自己完結的になされる。説教において、説教者も聴衆も神の器として説教をささげ、最後にアーメンをもってその応答を完結する。
しかしここでこのような反論も考えられよう。いわゆる「緊張の説教論」なるものはかつてカール・バルトら「神の言葉の神学」が標榜したものとほとんど変わらないのではないか。神の啓示はただ一つイエス・キリストであり、聖書はそのキリストを証しする人間の証言集のようなものである。そのため誤謬も有り得るその聖書を通しての、さらに説教者という誤りのある人間の言葉が神の言葉になるのは、神の恵みである。しかるべき場所でこの聖書の言葉が人によって語られるとき、聖霊の関与によってそれは神の言葉となり、説教を通しての神人の実存的な出会いが生じるのである・・・・「神の言葉の神学」の主張をごく簡単にまとめるならば、以上のようなものになろう。しかし実際のところ、それは「神の言葉」を標榜しつつも「神の言葉化」を説くものでしかない。「神の言葉の神学」は「神の言葉化の神学」である。福音主義を標榜する者は、「神の言葉」である聖書に対する権威と信仰を明確に打ち出しつつ、真の意味で「神の言葉の説教は神の言葉である」(第二スイス信条)と告白する者でなければならない。 しかし残念なことに、我が国の福音派は、説教を神の言葉として確立させていこうとする学問的営為を既に放棄しているかに見える。皮肉なことだが、バルトの聖書論の影響を受けた人々においては「なぜ誤れる人の言葉である聖書が、しかも誤れる人である説教者を通して、神の言葉となり得るのか」という神学的命題を真剣に突き詰めていくことにより、説教論研究が進んでいった。しかしその一方、福音派は「聖書は誤りのない神の言葉である。説教もその全的権威を聖書に置いている以上、神の言葉である」ということを自明の理とし、この命題を神学的に問うことをしてこなかった。そのため説教論についての研究や著作は戦後ほとんど進んでいないといってよい。後藤光三が『説教論』を世に出したのが40年前、その間で純粋に福音派の日本人によって書かれたものはほとんどなく、強いて挙げれば羽鳥明、藤原導夫両氏による入門書くらいであろう。訳書についても数冊か出ているが、その中で説教の本質について論じているのはごくわずかで、多くは実践論に終始している(その中の幾つかは、説教者の発声法や気質の改善まで我々に提供してくれている!)。
福音派が福音派たりえるのは「聖書66巻はすべて神の言葉である」という告白に集約される。その神の言葉である聖書を語り、さらにその説教自体において神に応答する。入船尊氏は「宣教の中心を占める説教の問題を取り扱う『説教学』においても、他の神学部門を結集した取組の必要を迫られている・・・・(中略)・・・・説教学こそは神学諸学科が総合的に動員されるべきものと言えよう。そのことはまた、説教という営みのためにこそ、すべての神学は営まれると言い替えることもできる(41)」と極言しているが、まさにこの説教を本質的に見直す学問的作業が今日求められていると言えるのである。
我が国において、説教と神学をそのように総合的に関連づけようとした者に高倉徳太郎が挙げられる。彼の説教観が最も良く表されているものは、『説教と神学』と題された小論であろう。この極めて短い論文の中に、高倉が生涯叫び続け、また実際牧会で行ってきた主張が網羅される。高倉は遊学先のスコットランドの説教壇を振り返り、同じ神学的脆弱を日本の教会へと投影する。
ともすれば説教が、聴者の漠然たる神秘的な宗教的気分に訴えるのみで、戦うに耐える力ある信仰を創造することができない。たんに気分に訴えるようなセンティメンタルな説教では駄目である。神の言が、客観的真理が、福音が、もっと徹底的に伝えられなければならぬ。説教は気分を目あてにすべきでなく、福音を魂に打ちこむべきである。神の言のみが、徹底したる信仰をつかましてくれる。(42)熊野義孝は『日本キリスト教神学思想史』において高倉の教会形成とその基盤となる神学を「未定型教会論」という極めてシニカルな響きを持つ言葉で結論づけた。しかし加藤氏によれば、高倉の説教は、札幌北辰教会や戸山、信濃町教会という具体的な牧会の場に根ざし、それらの具体的教会の将来を見据えたものであった。「この具体的な場所に集まる人々によって聞かれ、またその人々によって形成される教会、それがよし、いかに未定型のものであろうとも、高倉の説教に生かされ、またこれを生かしたのである(43)」。
彼にとって説教が牧会であり、そして牧会が説教であった。今日私たちは高倉の苦悩に満ちた最期を知っているのであるが、そこにあった高倉の葛藤は単なるオーガナイザーとしての失望感ではなかろう。己が説教を通して作り上げてきたものの崩壊、それは彼のような説教にいのちを賭けて生きてきた者にしかわからないものである。それを高倉の弱さとして批判することは容易だとしても、今日説教に対してこれほどまでに執着している牧会者はいるだろうか。高倉は説教と神学の関係についてこう述べる。
かくのごとく説教と神学とは、ともに福音と歴史的信仰とに立っているものであって、両者ははなはだ密接なる関係をもっている。真の神学は説教に集注と統一とを与うるものである。説教の中心使命は神学によって訓練せられる・・・・(中略)・・・・イエス・キリストにおける歴史的啓示、絶対的恩寵としての神の言を洗錬し、統一してくれるものは神学である。神学によって基礎づけられて、福音は何ものをも打ちくだく神の能力となるのである。(44)ここに高倉が我が国の教会において初めて神学をうち立てたと言われるゆえんがある。高倉もまたヨズティスと同じように、教会が告白し続けてきた神学と説教との乖離に無頓着でいられなかった。永遠のいのちか、それとも永遠の死かが決定される、そのような“一期一会”の場において、説教者が神学に聞くことを彼は最重要課題と考えた。
正しい神学は正しい聖書理解から生まれる。そして説教においてこそ、この聖書が教会員の魂に生きた言葉として伝わっていく正念場であるという意識が、彼の言葉に「デモーニッシュと呼んでもよい(45)」(!)と加藤氏が評価するほどの緊張感を与えたのではないだろうか。堀光男氏は「高倉とその教会の特別な地位はなんといっても、まだその形成途上にあった教会の中で、また神学的に不明瞭であった諸教派の中で、彼が教会の真実な姿を望み、それが福音にしたがってどのような姿をとるべきかをみずから問い求めた、という点にあるのである(46)」と指摘するが、高倉がこの教会形成を説教を通してなそうとしていた事実を鑑みると、今日の福音派における「説教の神学」の構築が急がれなければならないということが一層痛切に感じられるのである。
脚注
(41)入船尊「実践神学」、『新キリスト教辞典』(いのちのことば社、1991年)。
(42)高倉徳太郎「説教と神学」、『福音者の迫力』(教文館、1959年)、82頁。
(43)加藤常昭『日本の説教者たち−日本キリスト教説教史研究1』(新教出版社、1972年)、305頁。
(44)高倉、前掲書、83頁。
(45)加藤、前掲書、310頁。
(46)堀光男『日本の教会と信仰告白』(新教出版社、1970年)、78頁。
<追記>
本節の後半部分において、拙論『高倉徳太郎の説教論』と重複するところが多くあります。執筆時期は本稿(卒業論文)が先であることを付け加えておきます。