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2014.10.5「ゆるい教会の祝福」

週報はこちらです。

聖書箇所 使徒11:19-24
 19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。

序.
 「失敗は成功の母」という言葉がありますが、このことばを実際にあらわすものとしてよく紹介される、こんな商品があります。

「付せん」ですね。メモ用紙の裏に、はがしやすい糊がついていて、とりあえず貼ったり、しるしをつけておきたいときに使います。
いろいろな会社から発売されていますが、もともとは1980年、アメリカの3Mという会社が出した商品が元祖です。
じつはこの商品は、まったく別の商品、強力な接着材の開発から始まりました。
ところが研究はなかなかうまくいかず、できるのはくっついてもすぐにはがれてしまうものばかり。
研究所には失敗作の山ができて、時間もどんどん過ぎていきました。
しかし研究開始から5年後、研究員の一人の経験が、この商品の運命を変えました。
彼は日曜日には教会の聖歌隊のメンバーとして奉仕するクリスチャンでした。
讃美歌にしおりを挟んで、何曲か歌ったのですが、その週にかぎって、曲が変わるたびにはさんでいたしおりを下に落としてしまう。
何回目かに拾ったとき、ふっと思いついた。あれ、あの失敗作を応用すれば、くっつくけどはがしやすいしおりができるんじゃないか、と。
それから3年後、試作品が完成。さらに3年後、全米で発売開始。足かけ10年以上かかりましたが、大ヒット商品となりました。

1.
 「付せん」の誕生エピソードは、今日の聖書箇所にもつながるのではないでしょうか。
初代教会は、ユダヤ人による、ユダヤ人のための教会として始まりました。
それは決して異邦人は救われないと考えていたのではなく、優先順位の一番目がユダヤ人であったということです。
異邦人も救われる、だがその前にまずすべてのユダヤ人に福音を伝えなければならない、と。
だから彼らはユダヤ人以外の者にはだれにもみことばを語らなかったのでしょう。

 ユダヤ人の教会は、あたかも3M社が最初に計画した、強力な接着材のようです。
ユダヤ人であるクリスチャン同士が、がっちりと結び合い、決して迫害の中でも信仰を捨てない、強い教会です。
しかし強力な接着材には、しばしば取扱厳重注意という但し書きがついています。
強い人々が基準になると、信仰の弱い人々を受け入れられなくなってしまいます。
信仰の弱い人々、それはこの場合においては、ユダヤの律法などをまるで知らない、異邦人たちです。
しかし神は、幾人かのキプロス人やクレネ人、いわばはがれやすい接着剤のような人々を通して、福音をギリシヤ人に伝えてくださいました。
ユダヤ人への伝道を第一と考えるエルサレム教会からすれば、アンテオケの教会は、失敗作と言わずとも、受け入れがたいものだったでしょう。
しかし人の目にはどう見えたとしても、神はこのアンテオケ教会をご自分の教会として認め、共に歩んでくださったのです。

 一時期、『健康な教会へのかぎ』(いのちのことば社)という本が牧師や神学生の間で流行したことがありました。

アメリカの牧師リック・ウォレンが書いた本で、神学校でも課題として読まされました。
が、そこに書かれてある教会は、私の感覚からはとても健康には思えませんでした。
教会のあらゆる営みは目的がしっかりしていなければならない、というスタンスだったからです。
会社であればそれは正しいと思います。しかし教会の中には、目的ははっきりしていないけど大切な時間というのもあるのです。
教会の営みにすべて目的をしっかり定めている教会は、強い教会です。しかし教会は、ただ強ければよいというものではありません。
信仰の弱い人々、疲れている人々が教会にはいます。教会でしか受け止めることができない人々がいます。
がっちりではなくて、緩くて緊張しない、させない、ゆったりとした時間や空間が必要です。その点で、私たちの教会はどうでしょうか。

2.
 エルサレム教会からすれば、この幾人かのキプロス人とクレネ人は、言葉は悪いが、はみ出し者でした。
初代教会の誰もが福音をユダヤ人に優先して伝えていた中で、彼らはその道に倣わなかったからです。しかしなぜ、彼らだけがそうだったのか。
その答えのヒントは、20節の中にあります。「アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた」と。
アンテオケに何があったのか。あらゆるものがあったのです
アンテオケ、それは現在のシリアにあった町であり、人口50万人を誇る大都会でした。そこには現代のニューヨークのように、人種のるつぼでした。シリア人、ローマ人、ギリシア人、ユダヤ人、エジプト人、ありとあらゆる人種が集い、うごめき、死んでいく町アンテオケ。
そこには、この世のあらゆる快楽が詰め込まれ、罪と滅びもまた町中に溢れていた。
この幾人かのクリスチャンたちは、ここでイエスの御名を語らずにはいられなかったのです。
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、あらゆる人々がこのアンテオケで罪と快楽に飲み込まれている。
その姿を毎日のようにまのあたりにしながら、彼らは救いの知らせをユダヤ人だけに限ることはできなかった。
罪が心の問題だけではなくて、生活そのものを苦しめている姿の前に、彼らは語らずにはいられなかったのです。
罪人に対するあわれみ、それがアンテオケ教会を生み出した力であり、それゆえに神は彼らの上に御手を置いて、共に歩んでくださいました。

 このことを思うとき、私たちの伝道の本質は、罪の中をさまよっている人々に対するあわれみではないかと思います。
教会から家までの帰り道、視界に入る人々をよく見てください。コンビニに入っていく人。犬を連れて散歩している人。ジョギングをしている人。
庭木に水をやっている人。何も特別な助けを必要としていない人々に見えるでしょう。
しかし彼らは、自分の気づかないところで罪の縄目の中に落ち込んでおり、そこから助けを乞い願うことさえないのです。
イエス・キリストの御名による福音だけが、彼を、彼女を、永遠の滅びから救い出すことができます。
クリスチャンにとって問題なのは、愛が足りないことではなく想像力が足りないことです
目の前を歩いている人が、そこそこ幸せに生きているだろうとしか考えない。
その人が心の中でどれだけもがいているのか、そしてそれを隠して生きているのか。
福音を求めている人はわずかでしょう。しかしすべての人々が、福音を必要としています。
それを伝えることができるのは、私たち教会しかいないのです。先に救われた者たちしかできないのです。

3.
 最後に、アンテオケ教会に派遣されたバルナバについて、考えてみましょう。
私たちは月に一回、別帳会員や長期欠席会員のためにとりなす祈祷会を「バルナバ祈祷会」と呼んでいます。
それはかつて、孤立していたサウロが教会の交わりに入れるようにとりなしたバルナバの姿に倣おうという意味をこめています。
アンテオケ教会がゆるい接着材だとすれば、バルナバは石や金属のような堅い人物ではなく、紙のような柔らかな物腰のある人物でした。
その柔らかさは、聖書の中にはっきりと出て来ます。
23節、「彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました」。
バルナバにとって、異邦人中心のアンテオケ教会の信徒たちは、彼が経験したことのないクリスチャンたちの姿だったでしょう。
旧約聖書の厳格な決まりを守らない、というよりも知らない、そんな異邦人クリスチャンたちの姿を、バルナバは目撃したに違いありません。
それでも、彼は「アンテオケ教会に到着したとき、神の恵みを見て喜んだ」のです。
ユダヤ人、異邦人の違いはあります。しかしバルナバは、その違いさえも、神が与えてくださった恵みとして受け止めました。

 日本全国に、プロテスタントの教会は約8000、新潟にはそのうち約90の教会があります。教派も違い、神学も異なります。
私たちは礼拝の感謝祈祷で誰かが祈っている間、他の人も自由にアーメンと言えますが、ある教会ではそれはしないようにと指導されます。
このような違いを挙げていけば、枚挙にいとまはありません。でも違っているからこそ、そこには神の恵みが満ちているのです。
教会の一致とは、すべての教会がまったく同じになることではありません。本当の一致とは、それぞれが違ってていいのだと認め合うことです。
あなたはあなた、わたしはわたし、でも明らかに違っている者たちが同じイエス・キリストにあって兄弟姉妹とされている。
違っていることを認めながら、お互いが相手を自分よりもすぐれた者として敬っていく。そして自分の抱えている欠点や弱さを決して隠さない。
隠さないから、向き合っていける。そのときに、自然と生まれてくるもの、それが一致です。


 これは教会同士の関係だけでなく、教会員同士にも当てはまります。私たちの教会には、求道者も含めて、だれひとりお客様はおりません。
それぞれにとって、ここは「私の教会」と言えるところです。だから自分にできることを探していきましょう。
「何もできない」という人は、世の中に一人もいないのです。人の目には無力ではみ出し者であっても、神の目には決してそうではありません。
その人にしかできないことがあり、神はその、その人にしかできないことも、あらかじめ備えてくださっています。
どうか、ひとり一人がそれを見つけていく一週間でありますように。
posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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