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緊張の説教論(13)「4-2.バルト説教論の問題点と第二スイス信条」

 「人間の言葉を通してなされる説教がどうして神の言葉になるのか」。説教論の焦眉となる命題は恐らくこれに尽きるだろう。しかし福音派においてこの命題が真剣に取り扱われてこなかったのはなぜだろうか。自明の理として片づけられてしまっているのだろうか。それとも宗教改革の時にその問題は既に決着を見たと考えているのか。あるいはバルト神学の二の轍を踏むまいという危惧がこの問題に対する神学作業を先送りにしてきたのだろうか。バルトの神学においてはこの命題が極めて重要な意味を持つ。バルトの初期の著作である『教会教義学』の中においてその思想は既に見られるが、むしろここでは彼の神学的熟成期の言葉に目を留めてみよう。畏友トゥルナイゼンとの共著である『神の言葉の神学』において、バルトは以下のように述べている。
 ドイツ民法の中に国家の考えが固定されているというような意味で、聖書は神の言葉であるわけではない。本来われわれはこう言わなければならない。聖書は神の言葉になる。神の言葉になるそのところで、神の言葉なのである。この出来事が大切なのである。神の言葉をどこかで読みとったとか、聖書そのものが神の言葉であるということが問題になるのではない。聖書と、いわばひとつの生活史を営むようにと、説教者は召されているのである。それは説教者と神の言葉との間に何か出来事が起こるような歴史である。・・・(中略)・・・聖書が正典であるという事実が言おうとするのも、結局のところは、教会が聖書の諸文書を、神の声を聞きうると期待してよい場所として理解したということなのである。説教者の取るべきよい態度というのは、逐語霊感説に固執するかどうかによって決まるわけではない。神がここで自分に語りかけてくださることを期待しているかどうかにかかるのである。(47)
 長い引用になったが、ここにバルトの聖書観、説教観が明確に打ち出されている。聖書の霊感性と正典性は極めて相対的というよりも流動的である。またその説教の権威そのものも、聖書に独立自存的というよりは説教者と神の言葉の出会いという「出来事性」に専ら依存する。彼によれば、聖書は神の唯一の啓示であるイエス・キリストを証言する書物に過ぎない。人間によって書かれた以上、そこには様々な誤謬も容易に見られる。
 その「聖書が神の言葉になる」奇跡はいかにして起き得るのか。それは教会の礼拝における聖霊の働きである。聖書を「神の声を聞きうると期待してよい場所として理解」し、個々人が聖書と出会う礼拝のその然るべき時、然るべき場において聖書は神の言葉となる。説教が神の言葉となるという奇跡もその聖書理解の延長線上にある。神の言葉の唯一の源が人間の書いた可謬的聖書であり、それもまた可謬的人間によって語られるにもかかわらず、それが神の言葉になるという奇跡はいかにして起こるのか。川村輝典氏の解説によれば、「それはただ、聖書が朗読され、人間の口を通して解き明かされ、しかもそこでただ神ご自身のみが働かれる場、つまり礼拝の場においてしかあり得ない(48)」のである。礼拝でみことばが語られるとき、聖霊の内的照明によって、可謬的聖書に基づく可謬的説教が神の言葉になるという奇跡が現実のものとなるのである。

 しかしバルトのこの説教論は、ある意味において循環論法的なものであると言えよう。すなわち、まずはじめに「説教は神の言葉である」という大前提が最初にあり、そこから聖書と説教者の可謬性を考慮しつつも、結局は聖霊の働きに委ねている。川村氏はバルト神学に依拠した論文の中で、「一人の罪人である人間が、神の言葉を語ることがはたして許されるのか、またそのようなことが可能なのかという問い・・・(中略)・・・その問いは学問的な論証によっては答えが出せないものであることが、論を進めれば進める程にますます明らかにされて来た。つまり、このような問いに答える手段は、学問的には存在しないのである。神学といえども回答不能と言わざるを得ない(49)」と正直に述べているが、これはまたバルト自身の結論でもあったろう。氏はこのように論を閉じる。「それは奇跡でしかない。われわれ説教者はその神による奇跡を信じつつ、今日も明日も説教という光栄ある務めに励むのである(50)」。

 しかしバルトの聖書論とその上に構築されている説教論は、結局のところ聖霊を便利屋のように扱っている印象を拭い切れない。「説教は神の言葉である」という、バルトの出発点であり同時に結論でもあるテーゼは、言うまでもなく宗教改革者ブーツァーが1566年に起草した『第二スイス信条』の有名な一節である。正しくは「神の言葉の説教は神の言葉である」という文言であるが、説教論においてこの第二スイス信条の言葉は非常に大きな意味を持ち、また同時に多口に膾炙している。しかしこの言葉だけが切り離されて聖書自身の証言にまさる金科玉条のように用いられている傾向には注意しなければならない。加藤氏はこのテーゼを極めて高く評価しつつも、以下のような指摘も忘れていない。
 興味のあることは、宗教改革者の文章を読んでも、当時の教会の生んだ諸信条のたぐいを読んでも、説教が独立の項目として丁寧に論じられることはほとんどない。あの有名な第二スイス信条の、「神の言葉についての説教は、すなわち神の言葉である」というテーゼも、説教そのものを論じた部分ではなく、信条の冒頭で聖書を神の言葉として受け入れる信仰の告白との関連で語られたものであり、しかも、ひとつのセクションの表題として追記されたのであって、厳密な意味での本文には属していないのである。(51)
 実際に日本語で読める第二スイス信条を繙くと、非常に興味深い副題がまず目に留まる。「真のキリスト教の簡単、単純な信仰告白と説明」とあるのだ。実際、この第二スイス信条は、それ自身において「神の言葉の説教は神の言葉である」というテーゼが詳細に論じられているわけではなく、まさに簡明な教理集という印象を受ける。またもしこのテーゼを知らないまま読んだとしたら、恐らくこの言葉そのものさえも読みとばしてしまうかもしれない。問題となる第一章四節は実際にはこのように訳されている。
 四 今日、神の言が、教会において、正しく任命された説教者によって語られる時、神の言が宣べ伝えられ、信者に受け入れられることを信じ、他の神の言を捏造したり、天より期待してはならないと、われわれは信ずるのである。また現在宣べ伝えられている神の言を決して教師が語る言葉と考えてはならない。たとえ彼らが悪人であり罪人であっても、また正しい善人であっても、決して神の言を所有していないのである。(52)

 確かにこの文脈が意図するところは説教は神の言葉であるというテーゼそれ自体よりも、神の言の権威は説教者という地上的権威に由来するのではなく天的な権威に依存するものであるという、反ドナティズムの再確認のように思われる。神の言葉の権威が己ではなく聖書そのものに依存するというのは、筆者のような朴訥な説教者に対する大きな励ましではあるが、これは決して説教者を念頭に置かれた文書ではなく、むしろ会衆に向けてわかりやすく書かれた信仰告白である。「はじめに第二スイス信条ありき」のように捉えられている今日的傾向を警戒しつつ、説教が神の言葉であるということについてはあくまでも聖書そのものから根拠を求めるべきであろう。

脚注
(47)K.バルト/E.トゥルナイゼン『神の言葉の神学の説教学』、98-99頁。
(48)川村輝典「神の言葉と人の言葉」、山口隆康・芳賀力編『説教と言葉−新しい時代の教会と説教』(教文館、1999年)、183頁。
(49)川村、同書、184頁。
(50)川村、同書、184頁。
(51)加藤常昭『説教論』、125頁。
(52)日本基督教協議会文書事業部 キリスト教古典双書刊行委員会編『信條集 後篇』(新教出版社、1957年)、43頁。
posted by 近 at 12:57 | Comment(0) | 説教論
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