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緊張の説教論(14)「4-3.“緊張された言葉”によるバルト的宣教限界の打破」

 バルトの聖書論及び説教論が、可謬的な人間の言葉が「神の言葉になる」という命題に尽きることは既に述べた。福音派陣営からは、シカゴ宣言が示すように、「神の言葉になる、ではなく、神の言葉である」という言語十全霊感によって、この命題に反論を示してきた。宇田進氏は「バルトのような聖書観に立つ時、ついには神そのものを、そして福音の真理そのものを確実に知るということが言えなくなるのではないか(53)」というヴァン・ティルによる批判を紹介しているが、まさに妥当な指摘と言えるであろう。
 バルト神学においては、人間の語る言葉が神の言葉になるという。それは礼拝の場において聖霊が与える奇跡である。説教者にとって、自分の語る言葉が神の言葉であるという現実は極めて「畏れ多い」ことである。そこには当然緊張が生まれる。有限なる者の語る言葉が無限なる神の言葉となる緊張、神の御前に語っているという緊張が当然生起する。
 しかしバルト神学において、決して語られない緊張がある。それは、聖書の事実性そのものから生起する緊張である。 聖書は聖霊によって十全に霊感された神の言葉である。この霊感された、という言葉の意味は単に誤謬が防がれたということではない。神の民の歴史からキリストの贖罪を通して実現される王国の最終的到来が、一つの神のドラマとして聖霊によって動的に緊張させられているということである。聖書は誤謬を含む、しかも散漫な証言の寄せ集めだがそれを然るべき礼拝の場で聞くときに聖霊が働いてダイナミックに聴衆に迫る・・・・聖霊の照明とはそのような生半可なものではないことは明らかである。聖書が霊感された神の言葉であるという意味は、聖書正典66巻すべてが統一的かつ連続的なものとして聖霊によって統体的に緊張されているということである。
 聖書の形成史について言えば、記者たちがそれを聖霊によって緊張されたものとして受け止めたからこそ、それは極めて注意深く保存されていったのである。誤解を避けるために注意深く語らなければならない。霊感とは神がかり的に聖霊が記者に「降臨」したものでないことはもちろん明らかであり、記者たちが書き残していった各書も、その背景にあるイエスとの出会いや神の預言、人々の反応、あらゆる出来事が、伝えなければならないという緊張感を記者たちに与えるに足るものであったからこそ、文書として残されていった。最終的な編集的権威者は聖霊であるとしても、記者たちが緊張された出来事や言葉として認めていたものが書き残されていき、その際に生ずる危険があったあらゆる誤謬さえも聖霊が守ったというのが聖書の霊感である。

 しかし今日の説教者は、聖書が霊感された書物であり、記者たちの個性をも聖霊が用いられたということは認めていても、その成立の背後には記者たちの緊張意識があったということには目を留めようとしない。福音派においても聖書の霊感は「聖書はすべて正しい」程度の意識に留まり、そこまでして聖霊が保持しようとした内容の背後にある緊張意識にまでは及んでいない。しかし聖書が聖霊によって「緊張された」神の言葉である、という認識が私たちの説教の言葉に力を与える。
 なぜ説教は人を通しての言葉であるのに、神の言葉と言われ得るのか。聖書は次のような記事を私たちに提供する。
 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。(第一テサロニケ2章13節)
 口語訳、新共同訳ではこの「事実どおりに」を「事実、それは神の言葉である」と付言的に訳しているが、パウロがここで言おうとしたところは、まさにテサロニケの人々が、伝えられた聖書の言葉(パウロの説教)を事実として受け止めたことへの感謝であろう。使徒の働きにおいてテサロニケの次にパウロが訪れたベレヤの叙述においても、「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17章13節)と言われる。この一見テサロニケ書と食い違うような叙述の背後には、テサロニケで信仰に入った人々は聖書が事実通りか熱心に調べたが、受け入れないユダヤ人たちはまったくその正反対の態度を示したということを表している。テサロニケで信仰に入った人々(ごく一部のユダヤ人)の、聖書を事実として受け入れる態度を鮮明に覚えていた記者ルカは、ベレヤにおいてはその模範的態度をそこの多数のユダヤ人たちの中に見いだしたのである。

 そのような、人の言葉を神の言葉として受け入れる態度はどこから来るのだろうか。パウロは同じ手紙の冒頭でこう述べる。「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです」(第一テサロニケ1章5節)。福音の宣教は言葉によってなされる。「聖霊はいつも聖書とともに働き、みことばによって人を救われる(54)」と京都宣言はうたっているが、それはすべての時代に共通する真理である。にもかかわらず「ことばだけによったのではない」と言われるのはなぜか。今日のペンテコステ派から連想されるようないやしのわざを指しているのだろうか。この手紙全体の文脈から判断される実際はそうではない。「力と聖霊と強い確信」は、まさに「ことば」に付帯するものであった。たんなる教理や知識の啓明ではなく、パウロの言葉には「力、聖霊、強い確信」があったのである。それは旧約聖書すべてが神の指によって書かれた言葉であるというパウロの確信から来るものであり、彼の説教が聖霊によって緊張され、聞く者が畏敬せずにいられない力ある言葉として人々に伝わっていったということを示す。
 しかし聖書が人間的な誤謬も有り得るという立場では、決してそのような確信と力は得られない。クラウスは言う。
 謙遜と控え目の名の下に、「神の御旨にかなう時と所では」、人間の言葉が神の言になるということが「起こり」うる、と説明されてきた。しかしそうすることによって、「使徒的派遣についての確信」は、きわめて無味乾燥な考えによって妨害されることが多かったのである。説教は、冷静さと客観性のゆえに、まず第一に「教訓的で」、「対話的で」、「現代的で」、「興味をおこさせる」ものでなければならない、と命じられている。究極的全権に対する問いが放棄されてしまっている。(55)

 教会は説教によって前進し続ける。それは私たちの確信である。教会の歴史は説教の歴史である。預言者や使徒たちが叫び、教父たちが継承し、改革者たちが確立させた説教とそのダイナミズムを、私たちはこれからも、主が来られるまで語り続けなければならない。しかし聖書が神の言葉であると認めない立場からは、聖書がはっきりと命じているという確信を生み出すことができない。後藤光三が言ったように、「聖書を客観的な神の言としていない神学に基づくならば、『神はこう言われた』と神の言の剣をひきぬいて、罪に立ち向かうことは不可能になる。彼らにとって、聖書は一つの参考文献のようになり、確信をもって、『神はこう命じられた、キリストはこう約束された』と告げることができなくなるのである(56)」。
 教会の歴史の中で語られ続けてきた緊張の説教は、現代に最も求められている説教である。神は今叫んでおられる。アモスが獅子の咆吼にまさる畏怖をもって譬えたがごとき確信を、今日の説教者も持たなければならない。神の叫びを己の叫びとしなければならない。そしてそれこそが、神の言葉の権威への確信そのものさえも、キリスト者自らが失っている時代において、説教者が果たしうる回復の手段であると結論づけることができるのである。

脚注
(53) 宇田進『福音主義キリスト教と福音派』(いのちのことば社、1984年)、138頁。
(54) 同書、262頁。
(55) クラウス『力ある説教とは何か』、34頁。
(56) 後藤光三『説教学』、165頁。
posted by 近 at 17:11 | Comment(0) | 説教論
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