「さらに、自戒も含みつつ、今日の説教者に対して批判せざるを得ないことがある。それは、なぜみことばを取り扱うことに対して緊張しないのか、ということである。もちろん緊張している者は多くいる。しかしそれはみことばを取り扱う緊張ではなく、大勢の前に出ているという緊張である」。一年以上前に書いたこの数行の言葉が、この論文のそもそもの出発点であった。今日、私たちは教会で、学校のチャペルで、宣教大会で、数え切れないほどの説教を聞いている。しかし軽快なジョークに笑わせられることは幾度となくあっても、彼は今この説教を神にささげているのだと思わずにいられないような、そのような緊張感溢れる説教に出会ったことはほとんどない。それは明らかに説教の衰退ではないか?人に嬌声は与えても、いのちを与えることのできない説教を神は喜ばれるのだろうか?
そのような問題意識のもと、緊張の説教論という聞き慣れないものを筆者は取り扱ってきた。以上に挙げたような現状批判は決して筆者だけではない。だがそこに足りないものを緊張という言葉で説明しようとした者は遂に見いだせなかった。実際、緊張という言葉がこの問題を取り扱うに十分な言葉であったかというと甚だ心許ない。しかし聖書は聖霊によって緊張された、神の言葉である。これは筆者の揺るぎない確信である。 この聖書に神の畏れ多き、はかり難き計画
私たちの知るところの教会史及び説教史は、その説教者たちの緊張意識を私たちに垣間見させてくれる。旧約の預言者から始まり、新約の使徒たちや教父、宗教改革者たちはこの緊張の中、神のみこころを真剣にいのちを賭けて語り続けた。それが今日においても叫ばれなければならない、いのちを与える説教である。そしてそのような説教が語られるとき、その説教が神の御前でなされ、神が聞いておられるという緊張をも生み出す。すなわち説教者だけではなく聴衆をも緊張に巻き込み、説教を神にささげる主体的存在へと変えさせる。聖書が「神の言葉になる」ではなく「神の言葉である」とは、そのように聖書と説教者・聴衆すべてを繋ぐ緊張関係の中で、私たちの宣教の言葉を真の意味で現実的かつ衝迫的なものへとなさしめる神の力である。
本論の中で引用したクラウスの言にあるように、そのように緊張的な、力ある説教は決して厳粛な雰囲気や激しい口調によってなされるようなものではない。説教と牧会が一体のものであるという意識、自分は有限なる者どころかこの言葉を語る、或いは聞くことを除いてはまったく無なる者であるという自己否定、罪赦された喜びだけではなく、罪の悔い改めの弛まない更新がなされる礼拝の中で、いのちを与える“一期一会”の説教が実現される。これは説教絶対主義と批判されてしまうだろうか。だが説教のみしかないと私たちが告白するならば、今日における伝道方策の混乱は解消されるだろう。説教のみが神の言葉を人々にもっとも正確に、実践的に、直接に伝えることができるのであり、説教の場において説教者も聴衆も、主よ来てくださいと心から叫ぶことができるのである。緊張の説教論は、説教を通して礼拝の全参加者が神に応答し、牧会が説教と決して遊離しない教会形成を指向する。その意味で、この緊張の説教が意味する宣教可能性をいかに地方教会の説教の現場において引き出していくかが、私たち説教者に与えられた世紀的課題だと言えるだろう。
(おわり)
「畏れ」っていうことかなぁて思いました。