聖書箇所 使徒の働き12:1-5
1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。
4 ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
1.
誰もが、思い出したくない過去を持っています。
自分でも思い出したくないし、人にもおぼえていてほしくない、過去の苦々しい記憶があります。
そして個人だけでなく、教会という組織にもそのようなものがあります。
1941年という年は、日本のプロテスタント教会にとって思い出したくない年でもあります。
この年、日本の教会は、天皇崇拝に膝をかがめました。
当時の教会の週報をみると、礼拝の式次第の中には「宮城遙拝」が入れられ、集会案内には「戦勝祈願祈祷会」が入れられています。
これに反対する教会は、一つずつ、確実につぶされていきました。
私たちの所属する教団である、日本同盟基督教団も、この時代、天皇礼拝に膝をかがめて、結果として戦争協力を進めていきました。
当時、見せしめのために最もひどい迫害を受けたのが、日本ホーリネス教会という教団でした。
1942年6月には、全国のホーリネス系教会の牧師ら100人あまりが、治安維持法違反の容疑で一斉検挙されました。
そのうち6人が獄中で死亡。1人が釈放後まもなく死亡。
翌1943年4月には、治安維持法違反により約350の教会が解散に追い込まれたといいます。
いわゆる特高の刑事たちは、取り調べの中で牧師にこう質問したそうです。
「おまえたちキリスト教は、すべての人間が罪人だと言うそうだが、では天皇陛下も罪人なのか」。
そしてある牧師はこう答えました。「天皇陛下が人間であられます限り、罪人であることを免れません」。
その牧師は、ひどい拷問を受けた末、刑務所で亡くなりました。
私たち現代のクリスチャンは、そのような時代があったことさえも十分に知りません。
爪をはがされ、鼻から水を注がれ、窒息しかけながら、それでもイエス・キリストだけが私の神であると告白した人々のことを。
しかしあなたがもし死に至るまで忠実でありたいと願うなら、このような信仰の先達の存在を忘れてはならないのです。
2.
逮捕されたホーリネス教会の牧師に、青森ホーリネス教会の牧師であった辻啓蔵という人がいました。
終戦まであと半年の1945年1月18日、彼もまた拷問のすえ、獄中で亡くなりました。
彼の息子が、雪降り積もる中、刑務所まで父の遺体を引き取りに向かいました。
全身が紫色に腫れ上がった父の亡骸をそりに乗せて、彼はとぼとぼと雪の中を引いていきました。
しかしこれさえも、本当の迫害とは呼べなかったのです。
父の亡骸を引き取ったあと、彼はカボチャを分けてもらうために、かつて教会員だった農家を訪ねたところ、こう言われました。
「おたくに分けてやるカボチャはないねえ」。かつてその人は教会で真っ先に証しを語っていた、熱心な教会役員でした。
これが迫害なのです。迫害とは、外からの攻撃や、体や命を傷つける攻撃を指すのではありません。むしろ迫害は内側から起こります。
昨日までは兄弟姉妹と呼び合っていた人々からの、決して忘れることのできないことばや仕打ち。
どんな強靱な信仰者であっても、つまずかずにはいられないほど、人々を豹変させるもの。それが真の迫害の恐ろしさです。
今日の聖書箇所の中にある、ひとつの言葉に注目してください。
それは1節、「ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして」という言葉です。彼は「教会を苦しめようとした」のではありません。
あえて「教会の中のある人々を苦しめようとして」と、聖書は厳密に言葉を選んでいます。
教会員すべてではなく、教会の一部の人々に迫害の手を伸ばした、とわざわざ書かれているのです。
それは、教会の中にヘロデ王になびく者たちもいたということを意味しています。エルサレム教会は決して一枚岩ではありませんでした。
しかしこれは不思議ではありません。実際、戦時中の日本の教会がそうだったのですから。
ホーリネス教会へのあからさまな迫害の中でも、私たち同盟をはじめ多くの教会は、沈黙を続けていました。
3.
教会の交わりを破壊するのは、外からの攻撃ではなく、内側からのねたみです。
「教会の中のある人々」は苦しめるが、他の人々はそのままにする。
こうして教会が疑心暗鬼に陥り、一致できないようにしてしまう、ヘロデの企みはまことに狡猾でした。
阪神淡路大震災で復興がなかなか進まなかったのは、一部は震災で焼失しても、一部は無傷であったため、連携がとれなかったからでした。
エルサレム教会は、筋肉がちぎれ、ばらばらになりかけていました。しかしその中で、最後に残された希望があったのです。
それが5節、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」という記録です。
しかしどうか忘れないでください。
「熱心に祈り続けていた」その熱心さは、ただ神が与えてくださる熱心さであり、人が振り絞る熱心さではないことを。
迫害の恐ろしさは、からだを傷つけたり命を奪われることではなく、敵味方の区別がつかなくなり、信頼関係ががらがらと壊れていくことです。
しかしそれでも教会は、熱心に祈り続けることができました。それは、迫害の中で神が与えてくださった熱心さです。
『ローマ人への手紙』8章26節には、このような約束のことばがあります。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」。
私たちは、どのように祈ってよいかわからない時があります。
本当に苦しい時、人は言葉が出て来ません。
人が誰かの苦しみに寄り添おうとするとき、出てくるのはなめらかな言葉ではなく、ただくぐもった嗚咽ばかりです。
しかし神は、まさに言いようのない深いうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださいます。
サタンが私たちの交わりを内側から崩そうとしても、決して成功することはありません。
なぜなら、私たちの交わりは人間の結びつきによるのではなく、イエス・キリストの犠牲が生み出し、聖霊によって保たれているものだからです。
だからこそ、苦しい時、つらい時、心をかたくなにするのではなく、その苦しみを、つらさを分かちあい、思いやりましょう。
これからの一週間も、ひとり一人の中にイエス・キリストと聖霊なる神の豊かな祝福がありますように。