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「宗教としてのナチズム−その系譜と実像」(3)〜敬和学園大学の卒業論文(1994)

第2節 プロパガンダかコンセンサスか

 ヒトラーは『わが闘争』の中で、大衆示威集会(民衆集会)の意義について、次のように述べている。
 また民衆集会というものは、まず第一に若い運動の支持者になりかけているがさびしく感じていて、ただ一人でいることで不安に陥りやすい人に対して、たいていの人々に力強く勇気づけるように働く大きな同志の像を、初めて見せるものであるから、それだけでも必要である。・・・・(中略)・・・・もし彼が自分の小さい仕事場や、彼自身まさしく小さいと感じている大工楊から、初めて民衆集会に足をふみいれ、そしてそこで同じ考え方をもっ幾千人もの人々にかこまれるならば、そのとき彼自身は、我々が大衆暗示という言葉で呼ぶあの魔術のような影響に屈服するのである。(23)
 彼のこの主張は、ナチ運動の大衆動員の方法として一般に理解されてきた。国民社会主義運動に参加するか否かで逡巡している個人に対し、ヒトラーはこの運動の圧倒的勢力を誇示し、集団に所属することの安心感(ゲミュートリヒカイト)を提供する。団体の一員となった者自身は、自発的にこの運動に加わっているのだと感じているが、実際にはそれは「大衆暗示」と呼ばれる麻酔的効果でしかない  ナチ運動への大衆支持をプロパガンダで説明する者はこのように考える。
 しかし果たして本当にそうであろうか。「大衆暗示」はヒトラーの主観的な解釈でしかないにもかかわらず、歴史家もまたこの語に固執する。だが、当時のドイツはそこまで暗示を受けやすい人間で溢れていたのであろうか。無論、失業者数600万という深刻な経済不況が、ドイツ人からナチズムの危険性を認識する冷静さを失わせたのだという反論も可能であろう。しかしそれはあくまで可能性であって、決定的なものとはいえまい。「力は正義」のスローガンを各地で実演していたナチ党がドイツ経済を回復してくれる保証はどこにもなかったのに、なぜドイツ国民の三分の一は暴力政治の出現の危険を冒してまで彼らに票を投じたのか? このような問いに対し、モッセはその著『大衆の国民化』の中で、次のような答えを提示している。すなわち、私たちがファシズムと呼ぶ政治様式は「じつは人民主権という18世紀に出現した概念に基づく『新しい政治』の頂点(クライマックス)だったのだ(24)」。彼はファシズムを第一次世界大戦後の政治的混沌期に生起した一回性の歴史現象としてではなく、「大衆」を「国民」へと統合しようとする、一世紀以上にわたる歴史運動の一例としてみる。
 そもそも現代民主主義の基盤である代議制は、ルソーの説いた人民主権という政治概念とは矛盾していた。なぜなら、ルソーの理想とした「市民人」とは「自己を共同体に完全に預けてしまって、共同体の意志を自分の意志として生きる(25)」個人をさすからである。だが、相反的利害調整の政治フォーラムを構成する議会民主主義は「人や政治を統合するよりむしろアトム化する(26)」。「新しい政治」とは、このように代議制統治において統一性を失っていると感じていた大衆が、政治祭儀を通して自己表現を試みた運動だったのだ、というアプローチがモッセの「シンボル政治史」である。

 彼によれば、フランス革命は「あらゆるキリスト教的または王朝的な枠組みを超えて民衆が自らを崇拝しようと試みた最初の近代的運動だった(27)」。人々はキリスト教の神ではなく自らの理性を信仰の対象として選び、教会では処女マリヤの代わりに理性の女神が会衆を見下ろすようになった。また民衆の統一性を保持するため、革命祭典は万人を積極的参加者に変えることを目指した。その具体例としてモッセは、すべての観客を舞台へと連れ出したジョゼフ・シェニエの革命劇『共和国の勝利』を挙げている。
 そしてこの精神は「共同体体験」を強調する敬虔主義の伝統と合流し、ドイツにおける国民祭祀の発展に多大な影響を与えた。19世紀初頭の諸国民戦争前後、愛国詩人エルンスト・モーリッツ・アルントや、ドイツ体操の創始者フリードリヒ・ルードヴィヒ・ヤーンといった国民主義者は、キリスト教祭儀にゲルマン的要素を付加した公的祝祭を企図し、ドイツ大衆の歴史的民族意識を覚醒させようとした。「ドイツ人によってドイツ的伝統に則って企画された祝祭は、精神と情緒を包み込んだ。・・・・(中略)・・・・こうした式典ではゲルマン的シンボルが絶えず存在し、柏の葉で人々は身を飾り、山頂や式場の祭壇の上には火柱が灯された(28)」。ヴィルヘルム期においては、セダン記念日や皇帝誕生日等を通して、プロテスタント教会と政府が癒着した祝祭が開催された。しかし、「それは保守的なやり方で上から組織され、規律が強調され、徐々に民衆の参加を排除していった(29)」ために、国民主義のダイナミズムは徐々に失われていった。そしてワイマール期では、共和国政府は国民的祭祀の伝統を保守することに熱心でなかったため、「新しい政治」は政治的右翼の大衆動員に利用され、やがて第三帝国に至って頂点を迎える。

 モッセは更にこの書の中で、様々な諸組織の祭儀  ドイツ合唱協会や労働者合唱運動のシュプレヒコール、1920年代の素人演劇運動、モダンダンス運動による空間芸術、リヒャルト・ヴァーグナーのゲルマン的国民劇等  がナチ祭儀に取り入れられたことを論じている。彼の主張もまたノイロールと同じように、余りにも多くの思潮や運動をナチズムに直結させている傾向があり、それが逆に彼の説く「新しい政治」という概念を不透明にしてしまっているのではないかとも思える。
 しかしモッセが「つまるところ国民社会主義の祭儀はドイツ史の一世紀半に及んだ祭祀の発展の極致であったのだ(30)」と結論づけているところは、伝統的プロパガンダ解釈への反駁として大いに注目に値するであろう。結局、「新しい政治」を150年の長きにわたって推し進めてきた大衆は、ヒトラーが彼らに政治参加の場を提供してくれることを望み、ナチ運動に同意を与えたのだ  政権獲得後、その期待は大きく裏切られたのであるが。柴健介氏は『ナチズム・総統神話と権力』の中でニュルンベルク党大会に関する分析を行っているが、氏もまた、レニ・リーフェンシュタールのドキュメンタリー映画『意志の勝利』を引き合いに出しながら、こう言及している。
 大衆にとって党大会の場に、形式的には大々的に参与できる空間はあっても、実質的には自己の利害を代表できる余地はなかった。・・・・(中略)・・・・「意志の勝利」とはまさに総統の意志のもとでしか国民は勝利しえないことを意味していたのである。(31)

 ところでノイマンはその著『ビヒモス』の中で、「国民社会主義は、ワイマール共和国の制度的民主主義を儀式的で魔術的な民主主義に変えてしまった(32)」と述べているが、これは極めて示唆に富む指摘である。ナチ国家はまさにワイマール期に中断した国民祭祀の伝統に立つ「祭儀国家」であった。だがその祭儀を規定しているドグマが単なる国民主義にとどまらなかったことは、既に前節でみた通りである。総統が中心にあり、彼と同一化することが個人の救済をも包含する、極めてフェルキッシュ的色彩の濃い宗教祭儀がそこに存在する。

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 そのようなナチ祭儀として最もよく知られているものは、前述した党大会であろう。そこで繰り広げられる壮麗な音楽と光線のパフォーマンスは、全国から集まった数十万のナチ党員だけでなく、客観性を自負する外国人観察者をも魅了した。中空に向けられた百数十基のサーチライトによって囲まれたスタジアムは、英大使ヘンダスン卿によれば「あたかも氷のカテドラルの中にいるかのように荘厳かつ華麗(33)」であり、『ニューヨーク・タイムズ』特派員によれば「筆舌に尽くしがたいほどの美しさであった(34)」。これらの証言は、党大会がヒトラー神話を国民にアッピールするために、意図的に神秘的、宗教的な演出を試みた場であったことを示していると言えるであろう。宮田光雄氏は『政治的言語と政治的祭義』の中で、その具体的効果について次のように説明している。
 《総統台座》にただ一人立つヒトラーは、あたかも巨大神殿の壁に立つ最高司祭のように、大衆から引き離され、近寄り難い威厳を示す。しかも、登場まで何時間も待たされて興奮した大衆は、あたかも自発的な  現実には大衆の物見高さを計算に入れて周到に操作された  大歓呼を表現してみせた。(35)

 だがナチ祭儀の本質はそのような公的祭儀にではなく、むしろ生活儀礼の中にこそあったと言うことができよう。そこには民衆の生活に密着したキリスト教祭儀を排除し、代用宗教として総統崇拝を浸透させようとする意図が明らかに認められる。例えば12月25日は「民族クリスマス」とされ、「新たに芽生える生命の祭り」という異教的解釈が施された。イエス・キリストの降誕というキリスト教的意義は完全に廃棄され、伝統的なクリスマス讃美歌の斉唱も禁止される。祝祭の内容においても「北欧ゲルマン神話の英雄誕生物語の一節を朗読し、《常緑の生命の樹》や《甦える光》、更には《最も古くかつ聖なる勝利のしるし》ハーケンクロイツなどをシソポルとして代用することがすすめられる(36)」。そしてこのようにキリスト教的教義をナチ的に改ざんする一方で、祭儀形式はキリスト教礼拝の剽窃が一貫して行われた。5月1日の「国民的労働の日」の祝祭では、次のような「信仰告白」が唱和されたという。(37)
 司会者 「われらは汝の言葉を聞いた」
 会 衆 「総統!」
 司会者 「いずれの胸も高鳴り誓約する」
 会 衆 「総統!」
 司会者 「労働を妨げるものは呪われよ」
 会 衆 「総統!」
 司会者 「汝こそすべてである」
 会 衆 「総統!」
 司会者 「われらは汝の一部である」
 会 衆 「総統!」
 司会者 「汝の業と汝の帝国/勝利(ジーク)」
 全 員 「万歳(ハイル)!」
この応答形式はキリスト教礼拝の交読文をほうふつとさせるが、ここにはキリスト教祭儀の形式を模倣することによって民衆の抵抗感を緩和しようとするナチの宗教戦略を見いだすことができよう。
 また日曜礼拝や、幼児洗礼・結婚式・葬儀といった通過儀礼も、それぞれ「朝礼(Morgenfeier)」や「人生儀礼(Lebensfeier)」というナチ祭儀に代用された。とはいえ、それらは戦争勃発のためにヒトラー・ユーゲントや親衛隊(SS)内部で段階的に採用されるにとどまったが、そこでは礼拝形式はそのままに、しかし聖書朗読は『わが闘争』や『20世紀の神話』からの一節の朗読に、讃美歌は党歌やゲルマン古謡に置き換えられた。また隊員家族の幼児洗礼は「命名式」に取って代わられ、葬俄においては古代ゲルマンの風習に従って、死者は北方を向けて横たえさせられたという。(38)
 だが、これらのナチ祭儀の中で最も重要視されたのは「司祭役の存在を不要にすることであり、祭儀の参列者全員を祭儀当事者として参加させること(39)」であった。すなわち、こういったナチ的慣習を浸透させることによってイデオロギー的教育を行うことが主眼に置かれていたわけではなかった。むしろ、制度的及び精神的両面にわたってキリスト教の影響を徐々に民衆生活から取り除くことによって、彼らをナチ祭儀への積極的参加者と変えることがナチ宗教の目的であったと言えるであろり。更に言うならば、キリスト教祭儀の模倣もまた、民衆の違和感を和らげることを通し、キリスト教という伝統的基盤を喪失した民衆に、それに類似した代用宗教として自らを提示し、受容させる狙いがあった。それは教会によって提供されなくなる魂の救済が、総統崇拝を中心とするナチ祭儀への参加によって保証されることを意味する。

 しかしここで無視することのできない一つの疑問が生じる。ナチズムがキリスト教の代用宗教たらんことを当初から企図していたのであれば、いわゆる「ドイツ的キリスト教」とナチスとの関係はどのように受け止めるべきなのであろうか。そこで次節においては、福音主義教会内部にナチ的世界観を持ち込んだとされているこのグループの歴史と実際を明らかにすることによって、以上の問いに答えていきたい。

脚注
(23)アドルフ・ヒトラー『わが闘争<下>』(平野一郎/将積茂訳)、角川書店、1973年、pp.156-157.
(24)モッセ、前掲書、p.13.
(25)作田啓一「ルソーの直接性信仰」、『思想』665号(1979年11月)、p.25.
(26)モッセ、前掲書、p.14.
(27)同書、p.23.
(28)同書、p.88.
(29)同書、p.102.
(30)同書、p.189.
(31)柴健介「ナチズム・総統神話と権力−党大会における象徴化の過程−」、『シリーズ世界史への問い7 権威と権力亅、岩波書店、1990年、pp.213一214.
(32)ノイマン、前掲書、p.398.
(33)柴、前掲書、p.186.
(34)同書、p.185.
(35)宮田光雄「政治的言語と政治的祭儀−ナチ・ドイツの精神構造−〈下〉」、『思想』666号(1979年12月)、p.125.
(36)同書、pp.117―118.
(37)同書、p.123.
(38)同書、p.119.
(39)同書、p.119.
(卒論指導 岩倉依子助教授)
posted by 近 at 09:00 | Comment(0) | 宗教としてのナチズム
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