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2014.11.9「持つべきものは祈りのみ」

週報はこちらです。

聖書箇所 使徒の働き12:18-25
 18 さて、朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間に大騒ぎが起こった。
19 ヘロデは彼を捜したが見つけることができないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じ、そして、ユダヤからカイザリヤに下って行って、そこに滞在した。
 20 さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。そこで彼らはみなでそろって彼をたずね、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めた。その地方は王の国から食糧を得ていたからである。
21 定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。
22 そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。
23 するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。
 24 主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。
 25 任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た。



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http://idop.org/en/
1.
 私たちは、全世界で迫害を受けているクリスチャンのために祈らなければなりません。
先ほどの資料(IDOP14)では、昨年一年間で信仰を理由に殺されたクリスチャンは2123人、前年比の1.8倍とありました。
しかし実態はこの程度ではすまないと思われます。北朝鮮のように、収容所で秘密に殺されている人々は一切入っていません。
あるいは中国のように、信仰とは別の理由をつけて殺されている場合も含まれていません。
一億人のクリスチャンが全世界で何らかの迫害を受けているという事実を思うとき、
一億二千万人の中の1%以下にすぎない私たちに日本のクリスチャンが何ができるのかという失望さえよぎります。

 しかし私たちはもう一度、この12章全体を象徴するひとつのみことばを心に刻みましょう。
5節、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」。
教会には力はないし、そして持つべきでもありません。なぜなら力を持つ者は、力に依存するからです。
私たちが持つべきものは、祈りです。この世の力ではなく、祈りの力をいただきましょう。

 ヘロデ王は、ペテロだけでなく兵士たちの命さえも何とも思っていない冷酷な王でした。
また彼の演説を「神の声」だと叫ばせた者たちは、王にこびへつらうためには神の栄光を汚すことさえためらわない者たちです。
神は彼らのすべての言葉、すべての行動を見ておられます。
そして今日の招きの言葉にあったように、私たちではなく、神が報いをされます。
私たちに必要なのは、力ではなく祈りです。復讐ではなくとりなしの祈りです。人をのろう言葉ではなく、祝福を与える言葉です。
「教会は祈り続けた」という生き方に留まり続けるならば、私たちは全世界の一億の同胞を迫害から救い出すことができると信じましょう。

2.
 さて、ここに登場するヘロデは、イエス・キリストを殺そうとしたヘロデ大王の孫にあたる、ヘロデ・アグリッパ1世です。
聖書からはただの冷酷な人間としか見えませんが、じつは彼は政治家としては非常に有能でした。
当時のローマ皇帝が、ローマの国会、元老院と対立した時、ヘロデが仲裁のために奔走したという記録も残っています。
しかし優秀な人間は、しばしば自分の功績を誇るようになり、道を踏み外しやすい者です。


新約聖書と同じ時代に生きた、当時の歴史家ヨセフォスは、聖書の記録とは別に、こう記しています。
 人々は彼を神と呼んで、言った。
「私たちに恵みを垂れてください。これまで私たちはあなたを人として敬って来ましたが、これからはあなたを人間以上の方として認めます。」
王はこれを聞いたが、彼らをしかろうともせず、そのへつらいの言葉を退けようともしなかった。
 しかしその時、彼は主の使いに打たれました。間違えないでいただきたいのですが、彼は教会を迫害したから打たれたのではありません。
神に栄光を帰さなかったがゆえに打たれたのです。そしてさらに聖書はこう記します。「彼は虫にかまれて息が絶えた」と。
新共同訳聖書では、「蛆に体を食い荒らされて息絶えた」と訳しています。ウジ虫に体を食い破られた死んだ、とは何と悲惨な死でしょうか。
しかしじつは彼の心の中にはウジ虫よりも気味の悪い虫がのたくっていたのです。彼は使徒ヤコブを捕らえてすぐに処刑しました。
次の犠牲者としてペテロに狙いを定めて殺そうとしたが、逃げられ、代わりとして兵士たちを処刑しました。
まるで何かに突き動かされるように人の命を奪い続けました。そして、その得体の知れない虫はヘロデだけに潜んでいたのではありません。
彼の声を神の声と呼んでへつらったツロとシドンの民もそうでした。そしてすべての人間がそうなのです。
本人たちは、自分の意思で生きていると考えています。
しかしじつのところ、生まれつきのすべての人間は、内側にあるよこしまな力に抗うことができず、突き動かされているのです。
聖書はそれを罪の原理、あるいは原罪と呼んでいます。
使徒パウロは、かつての自らを省みて、私には自分で自分がしていることがわからない、と吐露しました。
私はよいことをしたいと願っているのに、私の内側にはその私の決意に逆らうものが確かに生きている、と。
多くの人々は、死後の地獄で、体が焼かれウジ虫に食い尽くされることを想像し、恐れます。
しかし本当に想像すべきは、今自分の心が罪と高慢によって支配されているという事実です。
そして本当に恐れるべきは、私たちを一瞬で滅ぼすことのできる、父なる神です。

3.
 しかし私たちは神に感謝しましょう。確かに父なる神は、その御手で人を一瞬で握りつぶすことのできるお方です。
しかしキリストの十字架が成就した今、むしろその御手を広げて、キリストを信じて神の子どもとされた私たちを抱きしめてくださるからです。
聖書の原文はギリシャ語で書かれていますが、23節の「ヘロデを打った」という言葉と、
主の使いが寝ているペテロのわき腹をたたいて彼を起こしたときの「叩いた」という言葉は、ギリシャ語では同じ言葉です。
主の御手は、ヘロデを死へと追いやりもすれば、ペテロを死から助け出しもしました。
神に対して、中立の立場はないのです。イエス様が十字架で私のために死んでくださったことを信じるか、信じないかを決めなければなりません。信じるならば永遠の命があり、信じないならば永遠の滅びがあります。
まだ、イエス様を信じる決心をつきかねている方々は、どうかこの大切な選択を間違えないでいただきたいと心から願います。

 一方で、クリスチャンの人々は神のみに栄光を帰すことをいつも忘れずに歩んでいきましょう。
人々があなたをほめたとき、「主がなしてくださったことです」と、人々の視線を自分から天へと向けさせましょう。
またもし人々があなたを責めたならば、「主が正しいさばきをなされる」と心に確信をもって、神の御手におゆだねしましょう。
今日、一億人ものクリスチャンが迫害を受けている現実は、神が眠りをむさぼっておられるように思えることさえあります。
そして冷酷な者、邪悪な者たちがこの世の富や力を独占しているような姿は、いつの時代も、どこの国でも変わらないことも事実です。
しかし私たちは、地上の栄冠ではなく、天の栄冠のために走りましょう。自分の栄光ではなく、神に栄光をお返ししましょう。

 確かに教会には富も、力もありません。ヤコブが捕らえられた時、なすすべもなく彼は処刑されました。
ペテロが捕らえられた時、教会は祈る以外に何もできませんでした。しかしその祈りが、主の御手を天から地へと引き寄せたのです。
富を持つ者は富に頼り、力を持つ者は力に頼ります。しかし教会は、祈りしか持たないゆえに、祈りに頼ります。
その結果、何が起きたのか。何が起きるのか。聖書は約束しています。24節、「主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った」。
ひとり一人が、祈りだけに依存する者として歩んでいきましょう。
posted by 近 at 15:46 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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