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2014.11.16「あれかこれか」

週報はこちらです。

聖書箇所 創世記25:19-26
 19 これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。
20 イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。
21 イサクは自分の妻のために【主】に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。【主】は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。
22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして【主】のみこころを求めに行った。
23 すると【主】は彼女に仰せられた。
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
24 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。
25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。
26 そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。

1.
 この秋から、NHKで「マッサン」という朝のドラマが放映されています。
あらすじは皆さんのほうがよく知っていると思いますが、
「マッサン」という題名は、スコットランドから嫁いできたリタという奥さんが、主人公の政孝を「マッサン」と呼ぶことにちなんでいるそうです。
このリタを演じるのは、スコットランドならぬアメリカの女優シャーロットさんですが、彼女も日本についてほとんど知らないという人でした。しかしNHKのオーディションの案内をインターネットで知り、身一つで日本にやってきて、見事ヒロインの座を射止めたということを聞きました。

 イサクの妻であるリベカも、身一つではるばる遠い東の国からイサクのもとに嫁いできた女性でした。
しかし彼女を待ち受けていたのは、ヒロインの栄冠ではなく、子どもが与えられないという苦しみの20年間だったのです。
当時の社会では、子どもが産めない女性は、神にのろわれた者という意味で受け止められていました。

 同じように、私たちの人生の中では、「こんなはずじゃなかった」と思わずにいられないことが多く起こります。
クリスチャンであっても、決して例外ではありません。
昨日までは感謝に溢れていたはずなのに、今日ふりかかった苦しみがその口をつぐませる。
そして心は神から見捨てられたように感じてしまうということが、信仰生活の中にも起こります。
そんなとき、人はこうつぶやくかもしれません。「神は私を祝福してくださるはずではないのか。なのに、どうしてこんなことが起こるのか」。
私はそのような方に対して、神様につぶやくなとは言いません。
むしろ、人に言えないような不平不満も、神様は受け止めてくださることを確信しています。
しかし、その繰り返しであってはなりません。
つぶやき、ガス抜き、つぶやき、ガス抜きでは、信仰の試練が与えられている意味を失ってしまいます。
ではどう生きるべきか。そのために、私たちには今日の聖書箇所が与えられています。
イサクとリベカの姿から、苦しみの中でどう歩むべきかを学んでまいりましょう。

2.
 まず夫イサクの行動について、21節でこう語られています。「イサクは自分の妻のために主に祈願した」と。
じつに、聖書66巻の中で、「自分の妻のために」と書かれているのは、このイサクだけなのです。
これは彼が完璧な夫だったということではありません。
彼にも多くの欠点がありました。そして彼の歪んだ行動が、家族関係を破壊したこともありました。
しかし彼は、唯一、妻のために祈ったと書かれている人なのです。

 残念ながら私たちは、自分に対しても人に対しても「あれもこれも」と完全を要求してしまいます。
だって聖書の中にも「完全でありなさい」と命じているところがあるではないですか、と。
しかし完全でありなさいと完全を行いなさいとは似て非なるものです。
私たちは、イエス・キリストが神の小羊として血潮を流されたことを信じて、完全にされました。
そして完全な行いは、私でもあなたでもなく、イエス・キリストがその人生でまっとうしてくださいました。
だから私たちは、人に対しても自分に対しても、あれもこれもを要求してはなりません。
むしろ「あれかこれか」を自分自身に問いかけていくべきです。
「あれかこれか」とは、あなたにどうしても必要なたった一つのものを選ぶことです。イサクはそれを選び取りました。
完全な父親にはなれなくても、しかし彼は妻のために祈った、たったひとりの夫でした。
そして神は、その「あれかこれか」を選び取ったイサクの祈りに対して、確かに答えてくださったのです。

3.
 一方リベカはどうだったでしょうか。夫の祈りを通して、彼女はついに子を宿しました。
これでようやく人並みの家族になれる。そう思ったのもつかの間、今度は双子の兄弟がお腹の中で争うという問題が襲ってきたのです。
22節で彼女はこう言います。「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」。
リベカが将来への不安を感じていたと思わせる一言ですが、じつはヘブル語を直訳すると、「このようなら、なぜ私は」となります。
「このようなら、なぜ私は」。不安は未来ではなく、今ここにあるものなのです。
こんなに苦しむくらいなら、なぜ私は不妊から解かれたのか。
二十年も待って、子どもがようやく与えられたと思ったら、彼らはお腹の中で争っている。
その現実の中で、彼女は不妊をいやされたことに疑問を感じています。

 私はこの時のリベカの気持ちが想像できます。救われて数年ほどした時、クリスチャンであることを苦痛に思うことがありました。
隠さずに申しますが、そのとき、私は救われない方がよかったのではないかと本気で考えました。
しかし今振り返ると、そして今だから言えるのですが、その闇さえも神の恵みなのです。
「本当に救われているのか」という疑問に思いっきりもがいたからこそ、何よりも救いがありがたく思える今があります。
思いっきり傷つかなければ、自分自身をいつまでも許せないということだってあるのです。
リベカは、適当に折り合いをつける生活に留まりませんでした。
本当の自分を隠してイイコを装うくらいなら、本当の自分を出したほうが、神様の前には真実です。
リベカもまた、「あれかこれか」を選びました。22節の最後をご覧ください。「彼女は、主のみこころを求めに行った」。

結.
 私たちは、毎日神の取り扱いの中で生きています。
昨日まではほほえんでいた主の御顔が、今日は豹変し、怒りを向けておられるように思われることだって起こります。
しかしそんな時も、神は私に特別の計画をご用意してくださっていることを思い起こしましょう。
神様は、私たちを他の誰かと同じく取り扱うのではなく、特注品、ハンドメイドのように私を扱ってくださいます。
だからときどき、理解できないことだって出て来ます。混乱してしまうこともあります。
私たちには、神のみこころを完全に知ることはできません。しかしみこころを求めにいくことはできます。
リベカがそうであったように、みことばをいただき、静かに祈り、悔い改め、そして立ち上がる。
それがクリスチャンの生活に必要不可欠な、奥まった所、すなわち霊的避難所です。

 神様は、私たちの人生をいつも導いてくださっています。
ある人は、自分の描いた夢を着実に歩んでおり、またある人は、自分で考えてもいなかった道を歩かせられるということもあります。
しかしいずれの道にも、それは私が切り開くものではなく、神様が先に歩んでくださり、道を整えてくださっています。
だから、どんなときにも失望することなく歩んでいきましょう。
神様の前に不満をぶつけたくなったら、我慢しないで神様にぶつけてもかまいません。
でもその繰り返しにしないで、リベカのように立ち上がり、神のみこころを求めにいきましょう。

 彼女から生まれた双子の兄弟、エサウとヤコブは、この夫婦の新たな火種となりました。
しかしたとえそうであっても、この子供たちは祈りによって生まれた子供たちでした。だから問題はあっても、後悔はないのです。
祈ることを知らない人、そして神にゆだねることを知らない人は、後悔します。
しかし私たちは何があっても祈り、神におゆだねすることを忘れないでいきたいものです。
それぞれの一週間の歩みの上に、主の豊かな祝福がありますように。
posted by 近 at 19:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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