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2014.11.30「暗やみが光」

 週報はこちらです。

聖書箇所 列王記第一8:10-14
 10 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。
11 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。
12 そのとき、ソロモンは言った。「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。
13 そこで私はあなたのお治めになる宮を、あなたがとこしえにお住みになる所を確かに建てました。
14 それから王は振り向いて、イスラエルの全集団を祝福した。イスラエルの全集団は起立していた。

序.
 2014年も残りあと一ヶ月になりました。皆さんにとって、今年はどんな年であったでしょうか。
私自身も公私両面において、試みを受けた年でもありました。おそらく皆さんの生活の中でも大変な思いをされた方がおられたかもしれません。
ある方は「お先真っ暗」という表現をして、ご自分の生活を説明されました。
しかし今日私は、この待降節を迎えるにあたり、神と共に歩もうと一歩踏み出す時、真っ暗などないということをお話したいと思うのです。

1.
 今日の聖書箇所は、ソロモン王が神様のために神殿を建てたときの様子です。
祭司たちが新しい神殿でいけにえをささげたとき、主の栄光が光り輝く雲となって、神殿の至る所に満ちました。
しかしそのとき、ソロモンは非常に不思議な言葉を語っているのです。
主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。そこで私は、あなたがとこしえにお住みになる所を確かに建てました」と。
栄光が満ちた時、ソロモンは「主は、光の中に住む」と言わなかったのです。むしろ、暗闇の中に住む、と言ったのです。
 このソロモンの言葉から覚えて頂きたいことがあります。
それは、私たちをどれだけ闇が覆っていたとしても、神に比べればそれは闇とは言えない、ということです。
人間は闇を嫌い、人工の光で闇を消し去ろうとします。
しかしどれだけネオンサインで街の闇を光に変えようとしても、人の心の闇は決して消えることがありません。
だからこそ、私たちは自分の人生にある闇から目を背けることはする必要はないのです。
私たちはすべてが罪人です。しかしそれよりもはるかに驚くべき恵みは、神はそんな人間を愛してくださっている、ということです。
神の愛、それは闇を吹き飛ばすというよりも、闇そのものの中に救い主イエスが降りて来てくださったということです。
今日から始まる四週間の待降節は、その恵みを心から感謝し、主が来られるその日を待ち望むための日々であるのです。

2.
イエス・キリストは神のひとり子でありながら、馬小屋でお生まれになりました。馬小屋は、洞窟をくりぬいたものだったと言われます。
馬小屋は、家畜の糞尿の匂いにまみれたみじめなところであり、私たちの心の象徴です。
しかしそれだけではありません。馬小屋は、闇に覆われていた場所であったということです。
イエス・キリストは宿屋の眩しい光の下にではなく、ヨセフ、マリヤの夫婦がお互いの表情さえ確認できないほどの闇の下に生まれたのです。
しかしキリストは闇の中に喜んで降りて来てくださったのです。
そこから始まるイエスのご生涯は、十字架の死に至るまで、人々の心の闇に寄り添う生き方でした。
人々から嫌われていた売春婦やらい病人と共に食事をし、彼らが満足するまでいっしょに時間を過ごされました。

 私は、そのイエス・キリストがあなたの人生の闇の中にも寄り添ってくださるのだということをお伝えしたいのです。
私たちは闇を恐れます。闇の中に落ちていきたくないと思います。そのために必死で生きていこうとします。
でも人にとっては闇に覆われた光景も、神にとっては闇ではないのです。
あなたは今恐れているものがあるでしょうか。心配の種があるでしょうか。
それは自分の努力で何とかなるものですか。自分の努力で何とかなるくらいなら、それは恐れも心配も必要ないでしょう。
しかし私たちが抱えている問題は、自分の力で何とかなるようなものではない、途方もないものばかりです。
 その不安から私たちを守ってくれるものは何でしょうか。ただイエス・キリストのみです。
闇の中をうごめくあなたを見つめ、闇の深みにまで降りて来てくださったお方です。
ご自分のいのちを捨ててまであなたを愛してくださった方、イエス・キリストのみです。それが私の信じているイエス・キリストです。
この方を自分の救い主として信じる人生は、聖書が約束しているとおり、闇がもはや闇ではなくなります。
人々が恐れる闇の中にも、確かに私と共にいてくださる方イエス・キリストがおられるからです。

3.
 イエス・キリストは人々にこう語りました。「わたしは世の光です。わたしを信じる者は、決してやみの中を歩むことがありません」。
またイエスの弟子のひとりヨハネは言いました。
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです」。
確かに神は光、世の光です。しかしその光は、闇を容赦なく切り捨てていく光ではなく、闇さえも優しく包み込んでいく光です。
もし神の光が、闇を単純にばっさりと切り捨てていく光であれば、どうしようもない闇を抱えている私たちには希望はありません。
しかしイエスの光は、人工的なネオンライトのような光ではなく、自然で暖かな光です。
朝日の光のように眠る者の上を照らし、柔らかく起こしてくれます。
あるときには夕日の光のように、一日の疲れを優しく包み込んでくれます。

 私たちの心の中には、闇があります。人に見せることのできない闇。自分でもどこまで深いのかわからない闇。
しかし神はその闇を優しく照らし出します。そのときに私たちにとって、闇は闇でなくなる。
少なくともキリスト者にとって、決して人生のどん底というものはありません。
自分によってどん底と思えるような、さらにその先には、すでに神様が御手を広げて、抱きかかえる準備をしていてくださいます。
神を知らない人には闇としか見えないものが、神を信じるときに闇でなくなるのです。
そしてイエス・キリストが十字架でご自分のいのちを捨てられたのは、闇が闇でなくなる人生をあなたに与えるためでした。
あなたが受けるべき罪のさばきをすべてイエスは引き受けました。闇が闇でなくなる。そんな人生を歩ませるために。
暗闇に光があるのではなく、むしろ暗闇こそが光です。私たちには暗闇と見えるものの中に、確かに主がそこにおられるのです。
posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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