参加予定者5人中、豊栄の青年男性が2人。この猛吹雪の中、会場教会へ出かけていきました。
こんな情熱的な男性たちに興味のある方は、当教会までお問い合わせください。週報はこちらです。
聖書箇所 イザヤ40:1-11
1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。
そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」
3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
5 このようにして、【主】の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。【主】の御口が語られたからだ。」
6 「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
7 【主】のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
9 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。
力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」
10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
序.
今から十年くらい前のことですが、日野原重明先生が敬和学園大学に招かれて、新発田市文化会館で講演を行ったことがありました。
そのとき、先生はまずこんなあいさつをして会場を沸かせました。
「この講演は、一年前に敬和学園大学から頼まれたものだが、私はすでに十年先まで約束が詰まっている。
親友の森光子が放浪記の舞台でのでんぐり返しをあと十年は続けたい、そして十年後にはぜひ先生に見てもらいたいと言っている。
だからそれまで私は死ぬわけにはいかんのです」と。
残念ながら森さんは一昨年亡くなられました。
しかしおそらく先生は、他にもたくさんの方々といろんな約束をされていて、だからまだ死ぬわけにはいかんと語り続けておられるのでしょう。
誰かとの約束は、人に明日も生きようという力を与えます。
今日、多くの人々が生きる力を失っているのは、約束のない生活の中で暮らしているからではないでしょうか。
ある方は、私はだれとも約束をしない、だれにも縛られたくないから、と言いました。
しかし約束は人を縛るものではなく、人を生かすものです。約束があるからこそ、私たちは生きる「はり」を得ることができます。
生きる甲斐なしという人生ではなく、生きる甲斐がある、生きがいがあるという人生があります。最後のは、日野原先生の受け売りですが。
1.
今日の聖書箇所は、今から2700年前に預言者イザヤによって書かれたものです。
当時のイスラエルは、人々の心はすさみ、外国から領土を狙われている絶望的な状況の中にありました。
しかしそれでもイザヤが人々に希望を語ることができたのはどうしてでしょうか。神の約束が彼の中に息づいていたからです。
たとえ今の現実が真っ暗闇に見えたとしても、すでに神はまぶしいほどの希望の光を与えてくださっていることを確信していたからです。
「「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる」。
神はイスラエルを見捨てたのではない。神はあなたがたの神である、とイザヤは語ります。
イスラエルの罪がこれほどおぞましい現実を生み出している中、なぜ神は民を見捨てられないのか。
それは、あなたがたのすべての咎が償われたからである、と。
その償いは、決して民の悔い改めによって与えられたものではありません。
イスラエルの民は相変わらず罪にまみれ、自らを価値なき者として、自分自身を見下していました。でも、すべての罪は確かに贖われた。
ここには、イザヤにとっては700年後にあたる、イエス・キリストの十字架による、完全な罪のゆるしが語られているのです。
多くの人々は、イエス・キリストを信じて救われるというキリスト教の教えを、クリスチャンの自己満足だと考えています。
私たちはそんな人々を説得することではなく、むしろ事実を伝えます。
イザヤが700年も前にイエス・キリストによる完全な救いを見たからこそ、彼は立ち上がることができたこと。
そして数え切れないほどのクリスチャンたちが、一度は人生に絶望して死さえも選び取ろうとしたのに、今は生きる希望に満たされていること。
それはすべての人間に、時を超えて神様からの完全な約束が与えられているからです。
イザヤにとって、700年後のキリストの十字架は、すでに確実なこととして、彼自身の希望となりました。
私たちにとっても、キリストの誕生と十字架は、二千年前の出来事でありながら、今生きる私たちの希望となるのです。
わたしの罪を償うために神は馬小屋に生まれ、十字架で命を捨ててくださり、そしてよみがえられました。
このことを信じるとき、目に見える暗やみはすでに打ち破られているのです。
2.
イエス・キリストはこの荒野のような現実の中でさまよい続けている私たちのために生まれてくださいました。
この方だけが私たちの罪を贖うことができるという約束こそ、イザヤが見上げ、また私たちが握り続けるべきほんとうの希望です。
地上にはさまざまな人の思い、願い、希望が流れています。
しかし力に溢れた青年もやがては老いゆき、栄華を極めた者たちの栄光もいずれは朽ち果て、人々の記憶からも忘れ去られていきます。
そのような現実の中で、私たちが頼ることのできるものは何でしょうか。ただ神の言葉だけです。
神の言葉だけが、永遠に朽ち果てず、いつまでも輝き続けるもの。私たちが自分の人生を預けることのできる、ただ一つの約束です。
そしてキリストもまた、いつも私たちと共に荒野を歩んでくださいます。
新約聖書のヘブル人への手紙の中には、こういう約束があります。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです」と。
この聖書の言葉を通して、私たちはイエス・キリストに出会い、そして共に歩み続けます。
この聖書の中に、私たちがしがみつくべきほんとうの希望が満ち満ちています。
イザヤが神の言葉の中に永遠の希望を見いだしたように、私たちもまた「神のことばは永遠に立つ」という希望を握りしめていきましょう。
私たちが握っているこのほんとうの希望こそ、今日世界が必要としている「良い知らせ」です。
9節、「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。
力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を」と。
3.
これも日野原先生の講演からですが、フロムという心理学者は、欲望と希望の違いをこう言っているそうです。
「欲望というのは、英語で言うとhaving(何かを持つこと)だ。それに対して希望というのはbeing、そうあること、自分がどうあるかだ。
つまり、欲望というのは外に持つもの、しかし内に持つものが希望である」と。
今日、たくさんの人々が希望を求めてさまよっています。
そのような人々に何ができるだろうかとずっと考えてきました。牧師として何ができるか。教会として何ができるか。
ホームレスの人が教会に訪ねてくることがありました。死にたいという人が電話をかけてくることもありました。
その中で、ある時にはどうしても経済的、物質的な援助をしなければならないこともありました。
しかしどんな状況であっても、語ることをやめてならないのは、ただイエス・キリストだけがあなたのすべての罪を償ってくださるということです。
食物も、金銭も、それは欲望を満たすものであり、やがてはなくなってしまうものです。しかしこの聖書のことばは、希望を与えるもの。
外の状況にかかわらず、内側に光を注ぐもの。そして私がどんな人間であろうと、それでもあなたは愛された者なのだという神の約束です。
この永遠の約束なしに、どんな慰めや励ましも完全な解決にはならず、その場しのぎで終わってしまいます。
しかしイザヤに語られたのと同じみことばを通して、イエス・キリストは私たちにはっきりと愛を注いでくださいます。
最後に11節のみことばをかみしめましょう。
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」。
羊飼いであるイエス・キリストは荒野をさまよう私たちを安全なところへと常に導いてくださる方です。
私たちが疲れて歩けないときにはふところに抱き、乳を飲ませ、私たちの生活に必要なものをすべて配慮してくださる方です。
この神の子イエスがあなたのために地上に生まれてくださった、というのがクリスマスの意味です。
イザヤは神の永遠のことばを通して、それを仰ぎ見て、喜びに震えました。私たちも喜びの知らせを伝えていきましょう。
どうかひとり一人が、このアドベントの中、神様からの約束にすがって歩んでいくことができますように。