聖書箇所 ピリピ人への手紙2:6-11
6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
1.
15年ほど前から、私の母は手足がしびれることがたびたびありました。
民間療法はじめ、様々な治療を試したのですが効果がありませんでした。
その症状が、ある難病で原因で起こっていたことがわかったのは、発病してから数年経ってからです。
今は薬で病気の進行を遅らせることが精一杯です。
去年までは、寝たきりではあっても会話はできたのですが、今は声帯に力が入らず、声がほとんど出せなくなっています。
母は今老健に入所しているのですが、お昼ご飯だけは父が毎日行って、食事を手伝っています。
私たちも時間を見つけて、なるべく見舞いに行ってはいるのですが、言葉が交わせないということが、これほど大変なことかと思わされます。
若いお母さんたちが、まだ言葉を話せない赤ちゃんと意思疎通することは、決して当然のことではなく、敬服に値することだとわかりました。
そしてもう一つ気づかされたことは、主イエスが物言えぬ赤子としてお生まれになった、というへりくだりです。
聖書の別の箇所では、「神は言葉であった、言葉は人となって私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1章)とあります。
そのお方、キリストが、言葉を話すことのできない赤ん坊としてお生まれになったという事実が、母の姿を通してなおいっそう迫ってきました。
仏教の祖、釈迦は、生まれてすぐに立ち上がり、「天上天下唯我独尊」と語ったということを聞いたことがあります。
その真偽はどうであれ、イエス・キリストはまったくことばを話すことのできない者として、この地上にお生まれになりました。
それは、まさに聖書が言うように、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたということなのでしょう。
だからこそ、イエス・キリストはすべての人の苦しみを知っています。
泣き叫ぶ赤ん坊の心も知っており、その叫びに動揺する母親の痛みも知っています。
そして私の母の痛みも、家族の痛みも、すべてを知っていてくださる方であると、私は信じています。
2.
言葉であるお方が、言葉の通じない赤ん坊として、この地上に来てくださった。
パウロは、別の手紙の中でこう書いています。
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためである」(第二コリント8:9)と。
クリスチャンは、イエス・キリストが私たちを富ますためにご自分は貧しさを選ばれたという恵みを知っています。
ましてやイエスが天において放っておられた、かつての栄光を知る天使たちにとって、その感動はいかなるものだったでしょうか。
クリスマスの出来事を描く記事の中で、天使たちはこう賛美します。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」。
その場面を描いた、多くの聖画では、天使たちは、黄金の光を放ちながら、星空の中で賛美しています。
しかしもしかしたら、天使たちはすすり泣きながら賛美をささげていたのではないだろうか、とも思うのです。
天地万物、あらゆるものを造られ、保っておられる方が、ベツレヘムの名もなき馬小屋に、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされる。
天使たちの賛美は、ただ上に向かっていく賛美ではなく、下を見つめながらの賛美です。
地に下られた主、すべての栄光を捨てられた創造主よ、そこまでして人々を罪から救おうとされるあなたに、栄光がとこしえまであるように、と。
天使たちの賛美は、最も貧しく、疎外された人々である、羊飼いたちに伝えられたと聖書は語っています。
主が貧しくなられたのは、あなたがたの貧しさをだれよりも知っておられるから。
「きょう、ダビデの町に、あなたがたのために、そう、あなたがたのために、救い主がお生まれになられた」と。
それはすべての時代に生きる、あらゆる人々の言い訳をつぐみます。
私なんか必要とされていない。私なんか生きている価値がない。しかし価値や必要という言葉は、イエスの前に意味のない言葉です。
救いは、あらゆる人々に向けられています。羊飼いのように小さく、弱い者であったとしても、例外ではありません。
そしてどんなに小さな羊飼いであっても、このすばらしい知らせを伝えていく者になれるのです。
3.
毎年クリスマスが近づくと、多くの場所で、ヘンデルの「メサイヤ」が合唱されます。
ところで、ヘンデルはどこの国の人だか、知っておられますか。そう質問すると、たいていの人は「ドイツ人」と答えます。
しかしじつは彼はイギリス人です。正確に言うと、ドイツで生まれ育ったが、イギリスに帰化し、イギリス国籍を得ています。
彼がなぜドイツを捨てて、イギリスに帰化したのかはよくわかっていません。
しかしその結果、彼はドイツではイギリス人とののしられ、イギリスではあのドイツ人と陰口をたたかれたこともあったそうです。
ヘンデルは、羊飼いのように社会の底辺にいた人ではありませんでした。しかし虐げられる人々の痛みを知っていました。
彼の代表作である、このメサイヤには、虐げられた民の叫びと、救い主誕生の喜びが溶け合って賛美されています。
ヘンデルの一生は、彼に与えられた才能とはとうていつりあわない、不幸なものでした。
しかしヘンデルという音楽家を不動のものにしたのは、彼の人生が幸福であったか否かではなく、その作品のすばらしさです。
私たちにとっても同じです。この地上の人生でどれだけ幸福であったか否かではなく、人生を通して人々に何を伝えたかで見るべきです。
私は人々に伝えられるものは何もない。果たしてそうでしょうか。
羊飼いに与えられ、大音楽家にも与えられ、私たちひとり一人にも与えられている、よい知らせがあります。
それが福音です。イエス・キリストがすべての人を罪から救うために、地上に来てくださったという知らせです。
イエス・キリストの救いの恵みをすでに味わっている者として、周りの人々に福音を知らせていこうではありませんか。
私たちが伝えなければ、人々は本当のクリスマスにいつまで経っても出会うことができないのですから。