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2014.12.21「味わい尽くせ、神のプレゼント」

 今日は待降節第4週、まだイブではありませんが、ほとんどの教会ではクリスマス特別礼拝をささげます。
豊栄も、午後はお祝い会を行いました(当日の模様は後日アップします)が、週報はこちらをご覧ください。
礼拝では、聖歌隊「T-Breeze 豊栄の風」による、特別賛美「In Dulci Jubilo(もろびと声上げ)」がささげられました。



聖書箇所 マタイの福音書2:1-12
 1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。



※説教の中で、独オットーボック社の義足「Genium x3」のCMを挿入しています。序.
 クリスマスプレゼントと呼ぶにはおこがましいのですが、これからみなさんに面白い映像を見せましょう。
何の映像かというと、義足のCMです。これを見ると、義足のテクノロジーがここまで進んでいるということがよくわかります。
二、三分ほどの長さですので、どうぞご覧頂きたいと思います。

 いかがでしょうか。肝心のお値段はと言いますと、日本円にして410万円。



 きっとみなさんは、高いと思うでしょう。
しかし切断を経験した者は、失った手足を取り戻すためならば、どれだけ金がかかっても惜しくはないと思うものです。
ただ今日あえてこれを見て頂いたのは、この410万円の義足をクリスマスプレゼントに欲しいからではありません。
むしろ私は、このCMを通して改めて気づかされた、私の心の傷を皆さんにお伝えしたかったのです。

1.
 私は足を切断してからの30年間、いつも喪失感を覚えて生きてきました。
イエス様を信じたとき、その喪失感は私を苦しめるものではなくなりましたが、それでも心の片隅にいつもありました。
でも、この映像を見てはっと気づかされたのです。私の人生の中でここまで大きな重しとなっていた、足を失ったこと・・・
それは30年の技術の進歩によって、こんなに簡単に解決されてしまう程度のものだったのだ、と。
だから私は皆さんにもこの映像を見て頂きました。
しかし本当に見てもらいたいのは、映像そのものではなく、あなたの人生を縛り、平安から遠ざけている「何か」です。

 人は、クリスチャンである、ないに関わらず、何かを心に抱え、それにどう向き合えばよいかで苦しんでいます。
クリスチャンはその苦しみを神に訴えることを知っている、ということであって、決してもがくことがなくなるわけでもありません。
私もそうです。しかしどうか考えて頂きたいのです。
突然、ふっとわいて出てくる、そのじくじくとした痛み、それはあなたがいつまでも苦しまなければならないほど、大切なものなのでしょうか。
捨てたいけど捨てられない、まるで押し入れに転がっている思い出の品のように大切なものでしょうか。
子どもの頃、大人に言われた一言がいつまでもその人の心を縛っているという現実があります。
もうとっくに忘れたと思っていた心の傷が、いつまでも消えることなく、わいてくるということもあります。
主イエスが十字架で死ぬために、赤子として生まれてきたのは、その傷をいやすためではないでしょうか。
私たちの心の痛み、そしてそれが生み出す罪意識、それを解決してくださるために来てくださったのです。

2.
 イエス・キリストは、今から二千年前にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。
それは、生きているがゆえに心もがく、私たちすべての人間に対する、神様からのプレゼントです。
このお方が私たちの罪の身代わりとして死んでくださることを通して、私たちは罪の束縛から解放される、最高のプレゼントです。
しかしイエスが生まれたとき、そのプレゼントの本当の意味を理解している者はだれもいませんでした。
当時ユダヤを支配していたヘロデ大王は、言葉巧みに博士たちをだまし、イエスを殺そうとしました。
民の祭司長や学者たちは、ベツレヘムで救い主が生まれるということを知りながら、まるで他人事のようにふるまいました。
東の国から来た博士たちは、ユダヤ人の王としてイエスを礼拝しにきました。
しかしイエスはユダヤ人の王ではなく、むしろ全世界のための罪のいけにえとしてお生まれになられました。
他の福音書では、羊飼いたちも登場します。彼らは天使から、救い主の誕生を聞き、飼い葉桶の中に寝ておられるイエスを探し当てました。
しかし羊飼いがそのときに想像していたよりも、はるかに大きな使命を背負って、イエス・キリストはお生まれになったのです。

 クリスマスの晩は、子どもたちが眠っている間にサンタさんがプレゼントを枕元に置いてくれます。
クリスマスは、家族や恋人たちが知恵を絞って、相手に喜ばれる贈り物を用意する、特別な時期です。
しかしだれも、イエス・キリストこそ、神様が全人類のために送ってくださったプレゼントなのだということには気づきません。
このお方が、私の罪の身代わりとして殺されるために、この地上に生まれてきてくださったのだという事実に目を留めようとしません。
むしろ、こう言うでしょう。いったい、二千年前のできごとが、今の私に何の関係があるのか、と。
でも、今日どうかおぼえていただきたいのです。
永遠に存在される神様にとって、二千年前だろうが、昨日のことであろうが、それはまったく変わりがないことを。
そして永遠の神は、この世界が造られる前から、私たちひとり一人を心に留めておられます。

3.
 人々は、クリスマスは祝いつつ、しかし私には宗教は必要ない、と言うでしょう。
だが人生に必要か必要でないかは、いったい誰が、何の規準で、決めるのでしょうか。
お金や灯油のように、私の生活に必要なものは、自分で決められます。
しかし私の人生に必要なものは、私が決めるのではなく、神様が決めるのです。
私が小学生の頃、わが家ではサンタへのリクエストハガキを親に渡すことになっていました。
しかしどんなものをリクエストしても、サンタが送ってくるものはいつも本でした。
だからクリスマスはがっかりした思い出ばかりですが、今ではサンタさんに感謝しています。
サンタはその時の私がほしいものではなく、それからの私の人生に必要なものを送ってくれたからです。
人は、私には宗教など必要ない、救いなど関係ない、と言うでしょう。
しかし神は、私たちの人生に本当に必要なものを送ってくださいました。
それが、イエス・キリストが私たちの身代わりとして十字架で死んでくださったというプレゼントです。

 このプレゼントを受け取るのに、資格や条件は必要ありません。
どんな人も、信仰をもってこのプレゼントを受け取るとき、その人の罪が赦され、永遠のいのちが与えられます。
しかしもっと大切なことは、神様がいのちを捨ててまで与えてくださったこのプレゼントを、味わい尽くすということです。
本であればすり切れるまで読み、服であれば流行が一回りするまで着続ける。そこまでして、初めてプレゼントは生かされるというものです。
私は、自分が24年前にイエス・キリストというプレゼントを頂きましたが、必ずしもその恵みを味わっていなかったことを認めます。
はじめのほうで話した障がい者としての喪失感・・・それが信仰生活の中でも、いつまでも私の心にのしかかっていました。
クリスチャンも、求道者の方も、プレゼントを受け取ることが目的ではなく、そのプレゼントをいかに味わうかということが大切です。
恵みをかみしめましょう。キリストが、あなたのすべてを愛し、受けとめ、世の終わりに至るまで共にいてくださるということを。
どうか、ひとり一人がこのプレゼントを味わい尽くすことができるように。
posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ
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