今年も様々なことがありましたが、神がすべてを益としてくださることを信じていきたいものです。
今年最後の週報はこちらをご覧ください。
聖書箇所 ヨハネの福音書2:13-22
13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
1.
今から40年以上前に新聞のコラムにとりあげられた出来事です。
クリスマスが近づき、ある教会の牧師がクリスマス集会の案内ポスターを玄関先の掲示板に貼りだす作業をしていました。
するとそのとき、前を通りがかった近所の人が、その牧師にこう話しかけてきました。「へえ、教会でもクリスマスをお祝いするんですか?」
牧師は目を丸くしながらも、伝道のチャンスと気を取り直し、落ち着き払ってこう答えました。
「ええ、もちろんです。クリスマスというのは、もともとはイエス・キリストがお生まれになったことをお祝いする、キリスト教のお祭りなんですよ」。
すると今度は相手が目を丸くして、こう言ったそうです。
「えっ、そうなんですか?私はクリスマスのような浮かれたイベントは、教会では絶対にやらないのではないかと思っていましたよ」。
繰り返しになりますが、これが新聞に取り上げられたのは、今から40年以上前のことです。
当時も今も、人々がキリスト不在の騒がしいクリスマスを求めていることは変わりがありません。
しかし教会のほうはというと、人々が少しでも教会に来るようにと、騒がしいクリスマスに近づいてきたようにも思えます。
教会暦では、昨日待降節が終わり、今日から降誕節が始まります。
この降誕節は、イースター直前の7週間、いわゆる四旬節が始まるまで、約2ヶ月ほど続きます。
はっきり言えば、教会暦では今日からクリスマスです。しかし私たちは、クリスマスが始まる前に息切れしているかもしれません。
クリスマス子ども会、クリスマス礼拝、クリスマスお祝い会、クリスマスキャロリング、クリスマスキャンドルサービス、エトセトラエトセトラ、
もちろん、私たちがクリスマスに関連してやってきたことは、決して自己満足でもないし、客寄せパンダでもありません。
しかしだからこそ、自分たちのしていることが神の喜ばれるものであるかどうか、落ち着いて見つめる勇気を忘れたくないものです。
クリスマスがキリスト教のお祭りであるというのは、騒がしく、おめでたく過ごすということことではありません。
そのクリスマス前後の約一ヶ月を通して、その祭りに参加するひとり一人が、イエス・キリストの辿られた歩みを追いかけていくお祭りです。
栄光を捨てて人の子として生まれてくださった、主イエスの犠牲をひとり一人がかみしめていくことをおぼえていきたいのです。
2.
イエス・キリストがエルサレム神殿を訪れたとき、そこにあったのはまさにお祭りの騒がしさでした。
いけにえにささげる動物たちを大声で売りさばいている商人や両替商たち。
自分が殺されることを予感してけたたましく騒ぎ立てている牛や羊たち。
その騒がしい姿を前にして、イエス・キリストは細なわでむちを作り、羊や牛を追い出し、両替人の金を散らし、台を蹴倒しました。
この出来事は、聖書の中では「宮きよめ」と呼ばれています。
そこに描かれているイエスさまの姿は、私たちが知っている柔和な救い主のイメージからはかけ離れているかもしれません。
しかし、神が怒るのは、愛しているからこそ怒るのだとおぼえましょう。
イエス様の怒りの激しさは、神が涙を流しながら人々を探し回り、救おうとしておられる愛の激しさそのものでもあります。
祭司たちも商売人たちも、自分たちが神殿を汚しているとは夢にも思わなかったでしょう。
祭司たちは神殿が人であふれている姿に目を細め、商売人たちは曲がりなりに自分たちは神に協力していると考えていました。
イエス様がここで宮をきよめてくださらなければ、彼らは自分たちが宮を汚しているのだということに気づかないのです。
主の怒りは、主の憐れみです。私たちは、主の怒りが、死んだ後にではなく生きている時にこそ向けられることを感謝すべきなのです。
もし主の怒りが、この地上で私たちに向けられなければ、私たちは自分が救いを必要としている罪人なのだとわからないのですから。
イエス・キリストの「愛なる怒り」は、もしかしたら今日の教会にも向けられているのではないでしょうか。
地域の人々は、私たちの教会を祈るための場所として見ているか?
私たちの教会で、国籍や心の問題にかかわらずすべての人が歓迎されているか?
祈ることよりも、交わりや食事に多く時間が割かれていないか?
今、神はこれらのみことばを通して、ほかならぬ私たちの教会の姿を示し、きよめようとしておられます。
聖書の中には、さばきはまず神の家から始まるとあります。
これは、神がきよめられるのはまず教会からということですが、しかし教会とは建物として、あるいは集団としての教会ではありません。
私たちは、たとえ一人であっても、教会です。神は、まずひとり一人の心という宮をきよめられます。
ヨハネの黙示録によれば、イエス様はラオデキヤ教会に向けてこう呼びかけられています。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところに入って彼と共に食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。(黙示録3:20)
戸をあけるとは、教会の玄関の扉ではありません。ひとり一人の心の扉です。
集団としての教会が何かをするのではありません。
ひとり一人の信者が、神のよびかけに個人的に応答するとき、それが教会の行動となるのです。
3.
私たち自身が神の宮です。神は、ご自身の宮にお住まいになることを何よりも喜びとされます。
イエス・キリストが私たちの心に入ってくださるとき、その人は救われて神の宮とされるのです。
自分をしじゅう責め立てていた罪意識から解放され、救われた喜びが心からわき上がってきます。
しかしそのためには、私たちの心を、みことばという細なわのむちで整えられなければなりません。
あなたの心の中は、商売人の持ち込む机や、お釣りや、鳥かごであふれていないでしょうか。
家畜の鳴き声や、貨幣をじゃらじゃらさせる音に象徴されるような雑音に覆われてはいないでしょうか。
神のみ声が聞こえますか。神のことばが心に届きますか。もし聞こえない、届かないとしたら、何が原因でしょうか。
今、イエス様は宮をきよめようとしておられます。
この世の事柄に心を覆われてしまって神の声がよく聞こえなくなっている私たちの心をきよめようとしておられます。
今、私たちは何をすべきでしょうか。自分の心をキリストにおゆだねすることです。
もしあなたの心のど真ん中で誇り高ぶっているあなたの自我がいるのであれば、まずイエス様によって追い出されなければなりません。
自分の心をキリストに明け渡すことには勇気がいります。
だから私たちは自分の自我が心の真ん中に居座り続けることを本能的に選んでしまいます。
しかし信仰は、私たちが本能的に喜ぶことの反対側にあります。
心地よさの反対側を選びなさい。無理に変わる必要はないという言い訳の反対側を歩みなさい。
そのときに、イエス様のみことばは、自我という邪魔者がどんと座っている心の王座を打ち倒し、主がそこに座られます。
神様があなたに求めているのは、あなたの心が祈りの家になることです。
感謝も、罪の告白も、やりきれない思いや失望も、すべてを神に告白するところが祈りの家です。
そしてそのために、私たちの心から悪しきものをすべて放り投げようとしているイエス様をとどめてはいけません。
祈りの家でささげられる礼拝にふさわしく、私たちはこれから祈りをささげましょう。
私たちの心が騒がしさから解放され、神のみことばによって砕かれることができるように。