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2015.1.11「バプテスマは十字架へ続く道」

 こんにちは。昨年よくがんばった自分へのご褒美として、ビデオカメラに取り付けているマイクを新調しました。rode_videomicrycotea.jpg
知る人ぞ知る、豪RODE社製のVIDEOMIC RYCOTEです。赤と黒のツートンがお洒落ですよね。
しかし感度がよすぎて、真横5m先で遊んでいるはずの子どもたちの声までしっかり入っています。
今年はこの子どもたちの心にも届くメッセージを語りたいものです。がんばれ俺。週報はこちらです。

聖書箇所 マタイの福音書3:13-17
 13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

1.
 あるとき豊臣秀吉が家来たちにこんな意地悪な質問をしたそうです。
「世間の者たちは、わしの顔がサルに似ていると言っているそうだが、お前たちはどう思うか」。
ここで「確かに、殿のお顔はサルに似ておりますなア」などと言おうものなら、たちまち首がとぶかもしれません。
家来たちは大慌てでごまかして、何とかその場をやり過ごそうとしました。
ところがそこでひとりだけ、秀吉の前に出て行った者がいました。そして一言。
「恐れながら、殿のお顔がサルに似ているのではございません。サルの顔が殿に似ているのでございます」。
秀吉はにやりとし、この家来の知恵をほめたということです。


 高校の聖書の授業を通して、はじめてこの聖書箇所を読んだとき、「聖書の神様って、人間に似ているなあ」と思いました。
イエス・キリストが水のバプテスマを受けて川からあがられると、待っていたかのように天が開け、御霊なる神が鳩のように下ってこられます。
そして天から父なる神の言葉が響きます。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と。
それは、あたかも我が子の成長を喜び、抱きしめる母の愛、そして喜びの声をかける父の愛をほうふつとさせます。
 しかし聖書に興味を持ち、はじめから読んでみると、私は大きな勘違いをしていたことに気づきました。
秀吉の話ではありませんが、神が人間に似ているのではなく、人間が神に似ているのです。
聖書のはじめ、創世記にはこう書かれていました。「神は、ご自分のかたちに似せて、人を創造した」と。
神がご自分に似せて人を造られたのならば、人間が神に似ているのは当然でしょう。

 しかしここで、若き日の私はまた悩みました。神は、目に見えず、肉体もないお方であると聖書に書いてある。
では、神がご自分のかたちに似せて人を造られた、とはどういう意味だろうか。
当時通っていた教会の牧師は、その質問にこう答えてくれました。
「神がご自分の形に似せて人間を作られたというのは、からだのことではないんだよ。
愛、きよさ、正義、誠実、そのようなご自分のもっておられるご性質を、私たち人間にも生まれながらに与えてくださったんだ」と。
 しかしそのとき牧師は、こう付け加えるのも忘れませんでした。
「だけど、私たち人間の祖先アダムとエバが罪を犯し、私たちの中に造られた神のかたちはこわれてしまったんだ。
愛したいけど愛せない、きよさを求めながらも罪から離れられない、正義や誠実でありたいと願いながらも、それができない。
人は、神のかたちに作られながらも、もっとも神から離れた者として生まれてくるんだよ」。

2.
 人は神のかたちに造られた、しかし神からもっともかけ離れたものです
孤独で心が渇いていた私は、愛がほしくて教会に行きました。そして確かに教会には愛がありました。
そして私も神から愛された者であると教えて頂きました。しかしそれでも私は、人を愛することができませんでした。
教会という、互いに愛し合う人々のモデルを間近に見ていても、自分はその中に入っていけませんでした。
それはなぜでしょうか。当時の私の、いまだ清算されていなかった罪が、愛に生きることへの壁となっていたからです。
 罪と聞いて、人々は何を想像するでしょうか。殺人罪、傷害罪、詐欺罪、罪と聞くと、人々はその上に別の言葉を付け加えます。
つまり、何か特定のことをしたらそれが罪になる、と考えます。
しかし罪とは人間が考えているよりも、はるかに深いものです。行動を押さえつけたとしても、心の奥底にうごめいているものです。
罪とは他人や社会を傷つける行動ではありません。むしろ人間の心にこびりついている性質です。
愛そうとしても愛せない。正しいことを願っても、間違いを犯す。きよく生きたいと願っても、泥の中を転がる生活を繰り返す。
なぜか。なぜ人は、自分の願うような生き方ができないのか。心の中にある、罪の原理が人を泥沼の中へ引き留め続けるのです。
神のかたちに造られた、この世で最も気高い生き物が人間です。
しかし神の王子王女であった、すべての人間は、いまや罪の奴隷となっており、そのことに気づくことさえまれです。
私たちは、いや私は、どのようにしたら解放されるのでしょうか。

 バプテスマのヨハネはその答えは知っていました。やがて来たるべき、私よりも大いなる方キリストが、人を罪から解放してくださるのだ、と。
だから彼は、人々に悔い改めのための、水のバプテスマを授けていました。
私たちはお迎えしよう。私たちを救ってくださる方、罪を知らぬ神の小羊、王なるキリストをお迎えしよう。
そして今日、ヨルダン川に並ぶ人の中に、彼はキリストを見いだしたのです。
しかしキリストはあろうことか、ご自分もヨハネからバプテスマを受けようとしました。ヨハネは慌てます。
水のバプテスマは、罪人が悔い改めを表すしるし。なぜ罪を知らないあなたが、バプテスマを受けなければならないのですか。
しかしそこでイエスはこう言われました。
今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(15節)。

3.
 イエス・キリストは、罪を知らず、そして罪を憎まれるお方です。しかし罪人を知っておられ、そして罪人を愛されるお方です。
イエスは完全な神であられ、そして完全な人であられました。
神として決して罪を犯すことはありませんでしたが、人としてあらゆる苦しみをなめられました。
 すべての人間が、罪に苦しんでいるわけではないでしょう。人を傷つけ、自分を傷つけてもそれを自覚しない人もいます。
逆に、罪に対して文字通り罪悪感に苦しみながら、解放されずにもがいている人もいます。
しかし人が罪を意識していようが意識していまいが、すべての人間は罪の支配のもとにあることには変わりがありません。
あらゆる人が救いを必要としています。そしてそのために、イエスは地上に来てくださいました。
 なぜ罪を知らないはずのイエスが、罪を悔い改めるバプテスマを受けたのでしょうか。
それは、はじめから終わりまで、徹底して人々の身代わりとなるためでした
人々が受けるべき罪のさばきを、罪を犯したことがないイエスがすべて身代わりに引き受けたのが十字架です。
罪を知らない方が罪人としてバプテスマを受け、罪を知らない方が罪人として十字架で死んでくださったのです。
だれのためのバプテスマでしょうか。だれのための十字架でしょうか。すべての人間のためです。さらに言うならば、あなた自身のためにです。

 イエスがバプテスマを受けて岸へ上がった瞬間、天が開け、御霊が鳩のように降り、父なる神の優しい声が聞こえてきました。
それは父、御子、御霊という三位一体の神が愛し合っている姿を教えています。
しかしイエスが十字架にかかられたときには、これとまったく逆でした。
イエスは、父なる神に「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、天は光を閉ざし、暗やみが世界を覆いました。
御霊も沈黙し、ただイエスのうめき声と、人々の罵声だけが響きました。
 今日の説教のはじめのほうで、私はこの箇所に出て来る御霊と天からの声のハーモニーを、まるで愛し合う家族のようだと言いました。
しかし十字架においては、その愛し合う家族はばらばらになり、イエス・キリストは孤独の中でひたすらもがき苦しまれたのです。
何度でも聞きます、それはだれのためですか。罪人である私たちのためです。
神は、私たち罪人との関係を回復するために、父・御子・御霊という三位一体の交わりを自ら引き裂かれたのです。
 もし私たちがその神の犠牲に答える道があるとすれば、それはイエスが死なれたのは私のためであるということを信じる以外にはありません。
生まれながらの罪人である私が、いつまでも神の子とされるために、イエスは十字架の上で苦しまれた、と信じる以外にはありません。
いや、イエスだけではなく、父なる神も、御霊なる神も、三位一体の神が苦しみ、傷ついたことを信じる以外にはありません。
神は、私たちを生かすために死なれました。私たちに愛を与えるために、ご自分の愛の交わりを自ら引き裂かれました。
私たちが罪の奴隷から神の家族へと変えられるために。イエスのバプテスマは、十字架へと続く道でした。
私たちも、それに続かなければなりません。神がいのちをかけて開いてくださった道なのですから。
posted by 近 at 16:00 | Comment(0) | 2015年のメッセージ
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