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2015.1.25「長い苦しみ、短い言葉」

こんにちは。今日の愛餐会では映画『サン・オブ・ゴッド(Son of God)』の話題で持ちきりでした。
『パッション』とはまた違った魅力があり、特に人物描写に長けているとのことです。
とはいえ、あまり万人受けする映画ではないので、上映期間も短かいようです。
新潟では今週の金曜日で上映が終了してしまうので、まだの方は(自分も)急いでご鑑賞ください。週報はこちらです。

聖書箇所 ヨハネの福音書5:1-9a
 1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。
5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。

1.
 以前も少しお話ししましたが、私の母は難病に冒されて、声がほとんど出せません。指を動かすこともままならず、ゼリーを呑み込む程度もできなくなっています。かつて私が10万人にひとりという病気になったとき、母は私を励ます意味で「ハワイ旅行に当たるより珍しいよ」と言ったものですが、母のかかっている難病はそれよりも珍しく、私も励ます意味で、「世界旅行にあたるよりも珍しいね」と言ってあげました。私は、小さい頃から母によく似ていました。小学生の頃、母方の祖母はよく私に言ったものです。「おまえは母ちゃんと同じ、のめしこきでしゃべっちょこきだね」。当時はほめられてるのかとうれしくなりましたが、後で父に確認したら、なまけものでおしゃべりという意味だ、と。しゃべっちょこきだから毎週こうやって話す仕事に選ばれたのかはわかりませんが、しかし人一倍しゃべっちょこきの母親が、耳も頭もしっかりしているのに声を出せないのは、どれほどつらいことだろうかと思います。
 しゃべっちょこき同士、ずっと繰り返してきた母との会話を思い出します。「伸之、私は教会のみなさんのように立派じゃないから教会は行かないよ」。「でもお母さん、教会は立派な人じゃなきゃ行けないところじゃないんだよ。むしろ嘘つきで、でたらめで、(失礼)、とにかくどんな人でも来ていいんだよ」。「ふーん、まあいつか、もう少し立派になったら行くさ」。(全然聞いてない!)今、母には天国のこと、イエス様のこと、教会の人たちのこと、さまざまなことを話しています。でも、母の相づちは聞けません。私に向かって何かを言おうとしているのですが、聞き取ることができません。「私も天国に行きたいな」と言っているのか、それとも「やっぱり、もう少し立派になったら行くよ」と言っているのでしょうか。
 入院中の母を訪問するたびに、私は母の口につくくらい、耳を近づけて、言葉を聞き取ろうとします。言いたいことが何となくわかるときもあれば、まったく見当がつかないときもあります。しかし最近、こんな経験をしました。先日私が訪問すると、やはり母の口元に耳を近づけている父がいました。父も母が言いたいことを聞き取るのに苦労しているようでした。私が冗談で「『50年も一緒に暮らしてきたんに、目を見てもわかんねの?』と聞いてるかもよ?」と言うと、父は苦笑して、「百年一緒に暮らしても、わかんねえときはわかんねえさ」と答えました。するとたまたま、姉がやはり見舞いにやってきました。姉も母の顔に耳を近づけるかと思いましたが、そうしません。代わりに母の目を見てこう話しかけるのです。「お母さん、合ってたらまばたきしてね。お父さんのことが言いたいの?」まばたきしない。「じゃあ伸之のこと?」しない。「あたしのこと?」しない。「お母さんのこと?」まばたく。「何かしてほしいの?」まばたく。「痛いの?」まばたく。「右手?」しない。「左手?」まばたく。「湿布はってほしい?」しない。「もんでほしい?」まばたく。

2.
 非常に驚いたわけですね。小学生の頃から、私は姉は他人の気持ちがわからない人だと思っていました。兄弟げんかのときも手加減しない人でしたし、夏休みの宿題で一番嫌いなのは読書感想文、「登場人物に共感できないから」と自分で言っていたからです。しかし姉が目の前で見せてくれたコミュニケーションは、母の気持ちがわからないとここまでうまくできないということがわかりました。ふと、姉の姿を見ながら、今日の聖書箇所、イエス様がベテスダの池で38年間伏せっていた人に質問する場面を思い出しました。
 「よくなりたいか」。イエス様の質問は、この一言だけです。そしてこの一言は、イエスかノーかを問う一言でした。母が何を願っているのか、短い言葉でそれを絞っていく姉の言葉も、イエスかノーかをまばたきで問う繰り返しです。イエス様の短い一言、それは38年間という気の遠くなるような長い時間とも、まことに対照的ではないでしょうか。私たちは、自分の人生の苦しみの期間が長ければ長いほど、そこからの回復や脱出のための期間も長くかかると考えがちです。しかしどんな人生も、たったひとつの言葉で変えることができます。それが人の言葉ではなく、神の言葉の持つ力です。
 「よくなりたいか」。そう呼びかけられたとき、たいていの人は二種類の答えを用意します。はい、よくなりたいです。いいえ、今のままで結構です。しかし彼はどちらでもありませんでした。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです」(7)。彼は、イエスかノーかをわざと避けているように見えます。いやされたい、という思いは確かに持っていたでしょう。しかし彼にとっていやされることよりも大きなことが、今までの38年間の孤独と、その延長線上にある不幸せなこの瞬間でした。彼は、過去を振り切ることができません。いやされたいか、いやされたくないかと聞かれれば、もちろんいやされたい、とは思っています。でも、今までの38年間、どうして自分がこれほどみじめな敗北感、絶望感を味わい続けなければならなかったのか。どうやって、自分はその38年間を取り戻すことができるのか。
 その心の叫びは、この人だけではなく、すべての人が抱えるものではないでしょうか。ある人は、子どもの頃に受けた傷を抱えながら今日を歩んでいます。またある人は、もっと長い期間をかけて心の中にこびりついた、地上的、有限的な価値観に支配されています。イエス・キリストの福音を聞いても、その痛みの深さと、傷ついてきた時間の長さゆえに、福音を受け入れることができません。しかし神は聖書を通して、はっきりと語っておられます。イエス・キリストを信じるならば永遠のいのちがあり、信じないならば永遠の滅びがあるということを。人生のあらゆる問題は、じつのところ、この信じるか、信じないかの二者選択にすべて繋がっているのです。

3.
 すべての人は、福音を聞いたとき、救われたいか、滅びたいかのどちらかを問われます。しかし救われたい、とはっきり言える人はまれです。救いが何か、わからないからです。救いがわからないのは、もう一つの選択肢である滅びがわからないからです。しかし滅びというのは、やがて来る、今は見えないものではありません。今すでに見えるかたちで、私たちの人生を覆っているものです。なぜ人は生まれたときから死がつきまとうのか。なぜ人は正しく生きることができず、悪に流されてしまうのか。なぜ人は愛したいと願っても、憎しみやねたみや怒りがわき起こってくるのか。あらゆる理不尽な現実は、すでに私たちの道が、生まれながら滅びの道にあることを教えているのです。あらゆる人々は、天井からオイルランプがつり下がっている地下室で生まれ、育てられている子どもにたとえられます。その子に太陽のことを話しても、理解できません。オイルランプ以上の光のまばゆさを想像できないからです。あらゆる人間は、生まれながらの滅びの道しか知らないゆえに、それが当然の幸せなのだと考えています。「いやされたいか」「救われたいか」と聞かれても、それ以上の幸せを想像することができません。
 だからこそすべての人にイエス様が必要なのです。イエス様は、イエスかノーかを保留した、この人の前を離れませんでした。むしろ、はっきりとこう宣言されたのです。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」(8)と。イエス様の、彼に対する決意を聞いてください。たとえ38年間、だれもあなたを顧みてくれなかったとしても、今日わたしがあなたを救う。そして今日からあなたの人生は、まったく変わるのだ
 38年という長い時間は、この人からはっきりとイエスノーを決断する気力も奪ってしまっていました。しかし38年という期間がどれだけ長いものであったとしても、イエス・キリストと共に歩んでいく永遠の時間とは比べることができないのです。たとえ何十年もの間しがみついてきた、生活習慣や心の傷があったとしても、今日イエス・キリストのほうへしがみつくならば、私たちは永遠に生きることができます。だから私は母に語り続けます。母に残された一日一日を思いながら、語り続けます。そしてみなさんにも語り続けます。どうか、キリストをご自分の救い主として受け入れてください。そして信じた者は今、永遠の滅びから永遠の救いへと変えられるのです。どうか、ひとり一人が、イエス様の問いかけに対して、「よくなりたい」そして「救われたい」と答えることができますように。
posted by 近 at 16:49 | Comment(0) | 2015年のメッセージ
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