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2015.2.1「責任とは目を離さないこと」

 イスラム国による日本人拘束事件の犠牲者となられた、お二人のご冥福をお祈りいたします。
残されたご遺族の上に、主の慰めがありますように。ただ、みこころが地の上になされますように。
週報はこちらです。

聖書箇所 マタイの福音書4:12-22
 12 ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。
13 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。
14 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
  17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
  18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
20 彼らはすぐに網を捨てて従った。
21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

1.
 「自己責任」という言葉が、またテレビやインターネットの世界からかまびすしく聞こえてくるようになりました。
言うまでもなく、イスラム国で日本人が拘束された事件を巡ってです。
「危険を承知で入国したのだから、国は彼らを助ける必要などない、自己責任だ」
「これが前例となれば、テロリストがますます増長する、自己責任だ」。
そのような声を聞きながら、自分の中に同調する部分があることも認めつつ、しかし高校の恩師の言葉を思い出しました。
25年前、ちょうど湾岸戦争の頃でした。その先生は、黒板にひとつの英単語を大きな字で書きました。
日本語で「責任」を意味する、Responsibility(レスポンシビリティ)という言葉です。
そして学生のほうに向き直り、こう語りました。
「この言葉は、レスポンス(応答する)と、アビリティ(能力)が組み合わさっている。
責任というのは、将来何かが起きたときに腹を切ることじゃない。今、目の前に起きていることに対して、応答する能力だ」。
そのときはわかったような、わからないような、とりあえずうなずいときました。
しかし今思うのは、「自己責任」という言葉によって、かえって目の前の出来事を存在しないかのようにしていることは、本来のレスポンシビリティとは真逆なのだということです。
私たちが責任を持つとは、眼前にある出来事がいかに受け入れがたいものであったとしても、目をそむけないことです。
親が子どもに責任を持つとは、子どもが自分の願いとは逆方向に歩んでも、そこから目を離さないということ。
教師の責任もそうです。牧師の責任もそうです。政治家の責任もそうです。
今、目の前に起こっている出来事から、何を言われようと、何と批判されようと、目をそむけないこと。
これが、この世界と人生に対する、私たちの責任です。

2.
 今日の聖書箇所の冒頭には、「ヨハネが捕らえられたと聞いて」とあります。
この知らせを聞いたイエス様はどのような思いだったのでしょうか。
決して平然としていたのではなく、悲しみに心を支配されたことでしょう。
捕らえられたヨハネは、イエス・キリストが地上に来られた目的を唯一理解していた人間でした。
母マリヤでさえ、ヨハネほどにはイエス様の使命を理解していなかったように思えます。
ヨハネは悔い改めのバプテスマを受けにきた人々にこう語りました。
「このお方こそ、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお与えになる。私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない」。
そしてそのイエス様がヨハネからバプテスマを受けようとしたとき、彼は言いました。
「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私のところにおいでになるのですか」。
 しかしイエス様は、ヨハネが捕らえられたと聞いたとき、悲しみの涙を流すために山にこもりませんでした。
むしろ人々が集まるカペナウムの町に赴き、そして次の言葉をもって、宣教を開始されました。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(17)。
これと同じ言葉が、同じマタイの福音書3章2節に出てきます。ヨハネがヨルダン川でバプテスマを始めたときに語ったものです。
銃や剣、暴力が信仰者をねじ伏せ、息の根を止めようとしても、一度始められた神の働きは決して止まりません。
ヘブル人への手紙の中には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストから目を離さないでいなさい」という言葉があります。
イエス様は、私たちが信仰を学ぶべき最初の模範であるとともに、私たちが信仰によって始めたことを最後に完成させてくださる方です。
バプテスマのヨハネが始めた、悔い改めの宣言は、彼が捕らえられたことによって終わりません。
イエス様はヨハネと同じ宣言をもって、その働きを引き継ぎ、完成させてくださいました。
もし私たちが、自分の幸いのためにではなく、神の栄光を表すために何かを始めるならば、あるいは始めているならば、それは必ずキリストが完成させてくださいます。
だから私たちは希望を失いません。
目の前の出来事がどんなに苦しくても、そこから目を離してはなりません。
それが本当の意味での、自己責任です。

3.
 責任が、目の前にある出来事から目を離さないことだとすれば、イエス様が弟子を招かれた姿はまさにそのとおりでした。
福音書の記者、マタイは言葉を注意深く使って、読者に教えようとしています。
つまり、弟子たちを招く際、そこにペテロがいた、アンデレがいた、という書き方をしていません。
どのところにおいても、「イエスがご覧になった」と記し、イエスのまなざしを強調しています。
これは何を意味しているのでしょうか。イエス様は、責任をもってご自分の弟子を招かれるお方であるということです。
この世の師弟関係は、弟子がついていけなければ終わりです。しかしイエス様は、ご自分が選ばれた弟子たちを、どこまでも責任を持たれます。裏切った弟子でさえ、イエスは決して見捨てることなく、もう一度用いてくださるお方です。
そして私たちが救われるということは、ひとり一人がそのイエスの弟子になるということです。
 興味深いことに、イエス様は、暇な人間を弟子にすることはありません。
ペテロとアンデレは湖で漁に励んでいました。ゼベタイの息子たちは、船の中で父と一緒に網を繕っていました。
またマタイは、収税の仕事に就いていたときに弟子として招かれました。「忙しい」ということは、弟子を拒む理由にはならないのです。
あなたには、やるべきことがたくさんあるかもしれません。家族を養わなければなりません。育児に励まなければなりません。
仕事を軌道に乗せなければなりません。しかし主は、それらをすべてご存じです。そのうえで、わたしについてきなさいとあなたを召されます。
主は決して、家族を捨てよ、仕事を捨てよ、とは言いません。「わたしについてきなさい」です。
家族に対する執着を捨てなさい。仕事に対する執着を捨てなさい。この世に対する執着を捨てなさい。
あなたが家族を養うのではなく、神が家族を養ってくださいます。あなたが仕事を完成させるのではなく、神がその仕事を完成してくださいます。
 イエスを信じるとは、私たちの過去、現在、未来すべてにおいて、イエスが責任を負っておられることを信じることです。
ペテロは、つかんでいる網から手を離しました。ゼベダイの子たちは、父の跡継ぎというレールから足を踏み出しました。
執着を捨てるときに、人は変わります。この人生で必要な執着はただひとつ、何がなんでもイエスにしがみつくという執着だけです。
もし救われたいのであれば、心の中にある偶像への執着を捨てましょう。
もし平安に満たされたいのであれば、不安の原因となっている、将来への執着を捨てましょう。
もし神との確かな関係を手に入れたいのなら、神を差し置いて人間関係を第一とする、生活への執着を捨てましょう。
あなたを作り、見つめてくださる主が、あなたのすべての責任を負ってくださいます。感謝をもって、イエス様の後ろについていく者となりましょう。
posted by 近 at 20:00 | Comment(0) | 2015年のメッセージ
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