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2015.2.12「いま、この時代に、祈る」

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26:52)
「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(ルカ12:32)

1.
 先日の某全国紙のコラムに、以下のような文章が掲載された。人の死を利用して自説を展開しているとしか思えないものではあるが、あえて全文を紹介する。
 わがことながら日本人は、敗戦から70年という歳月をかけて本当に優しくなった。「イスラム国」という名のならず者集団に空軍パイロットが焼き殺されたヨルダンは、さっそく報復爆撃を始め、指揮官を含む55人以上を殺戮した。▼ヨルダンでは、「なぜ2人も殺された日本がともに戦わないのか」という声が高まっているという。日本には憲法の制約があって云々(うんぬん)、と説明してもまず理解されぬだろう。▼憎しみの連鎖を断たねばならぬ、というご高説は一見もっともらしい。後藤健二さん自身も数年前、「憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。−そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」とつぶやいている。▼だからといって処刑直前も彼はそんな心境だった、とどうしていえようか。助けにいった湯川遥菜さんが斬首されたときの写真を持たされ、家族に脅迫メールを送られ、心ならずも犯人側のメッセージを何度も読まされた後藤さんの心境は想像を絶する。▼仇(かたき)をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話である。第一、「日本にとっての悪夢の始まりだ」と脅すならず者集団を放っておけば、第二、第三の後藤さんが明日にも出てこよう。▼日本国憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、わが国の「安全と生存を保持しようと決意した」とある。「イスラム国」のみならず、平和を愛していない諸国民がいかに多いことか。この一点だけでも現行憲法の世界観が、薄っぺらく、自主独立の精神から遠く離れていることがよくわかる。護憲信者のみなさんは、テロリストに「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない。
(2015.2.7『産経抄』)
2.
 他人の文章を引用した手前、細かな批判は差し控えよう。しかし今から12年前のことを思い出さずにはいられない。
2003年3月17日、当時のブッシュ大統領はすでに先制空爆を行ったうえで、こう通告した。
48時間以内にサダム・フセイン大統領とその家族がイラク国外に退去しなければ、全面攻撃を行う、と。
そしてその最終期限は、日本時間で3/20の午前10:00だったと記憶している。
それは同盟の教団総会の最終日、ちょうど教団の理事が補教師たちの頭の上に手を置いて正教師に任命する時間だった。
あまりにも象徴的ではないか。
攻める側も攻められる側も、自らの正義をふりかざす戦争に突入していくちょうどその時間、日本では若き神のしもべらが按手を受けていた。
彼らが語っていく相手、それはこの善悪の基準が混乱した世界そのものにほかならない。
それぞれの指導者が自分こそ正しいと主張し、それを保証してくれる相手として、それぞれが信じている神の名を口にした。
ブッシュはキリスト教の神を、サダム・フセインはアラーの神を。
一方は市民を解放するために市民を攻撃するという矛盾を犯し、一方はその市民を盾にして生き延びようとした。
私たちはそのような世界に生きており、そこから逃げ出すことなどできないし、また決して逃げ出してはならない。
あのとき按手を受けていた者たちはだれもがそう感じたに違いない。

 「小さな群れよ、恐れることはない」。今から二千年前に、イエス・キリストがユダヤの民衆に語った言葉だ。
多くの人は言う、二千年前の聖書の言葉が、いったい21世紀の自分と何の関係があるのかと。
しかし今日ほど、この言葉、「小さな群れよ、恐れることはない」。この励ましの言葉を人々が必要としている時代はない。
今や社会の公器たる新聞に堂々と「仇討ち」だの、微弱たる憲法など必要なしという言葉が踊るようになった。
「小さな群れよ、恐れることはない」と、イエスは言う。しかし恐れずにいられない。この世界が、これからどのような悪しき道をたどっていくのか。
平和の叫びも現実を変えられない世界に、どのようにして平和を作り上げていけばよいのか。
毎朝新聞を手に取るたびに、悲惨なニュースが大きな活字で目に飛び込んでくる。
祈りはすべてを変える、聖書はそう約束し、私たちもそれを信じて祈っている。だがその祈りは本当に聞かれているのか。
いっこうに先が見えない現実の前には、「恐れるな、小さな群れよ」、そんな励ましさえもむなしく聞こえる。
祈りなどという悠長なことを言っていないで、なにか行動を起こすべきではないか。

3.
 だが自分の心をイエスの言葉によって照らしてみよ。
そこに悔い改めの祈りがないならば、どんなに長い行進や抗議活動も、自分こそ正義であるという高慢の延長でしかない。
私たち人間は独善に陥りやすい。だから聖書を自分の心を映す鏡としてまず心の中の隠れた高慢を砕かれる必要がある。
それがあって初めて、みことばが私たちに何を命じているか、そして私たちが何を行動すべきなのかが見えてくる。
もしイエスがこの21世紀の社会に生きておられたならば、数万、数十万のデモにさえ、「小さな群れよ」と語りかけただろう。
イエスが二千年前にこの言葉を語られたときにも、イエスを政治的解放者と信じる一万人以上の人々が集まっていた。
小さな群れ、とは数のことを指して言っているのではない。
あくまで人間の力により頼み、事態を変えようとする人々に、私たちがいかに無力な存在であるかという意味で語りかけているのだ。
 ではいったい私たちの望みはどこにあるのだろうか。
もし私たちがこの世の暴力に対して力を、数十万の軍隊に対しては数十万のデモ運動を、という路線から離れないならば、私たち小さな群の望みはどこにもない。
しかし私たちがこの世の力に対して力ではなく、力に対して祈りを用いるならば、私たちは何も恐れることがない、ということを聖書は私たちに約束している。
 くだんの按手式のあと、当時の教団副理事長がこう語った。
私たちには祈ることしかできない。もしそうつぶやくのであれば、これ以上は祈れない、と思うほどの決然とした祈りをささげるべきではないか、と。
12年経った今も、私はその言葉を覚えながら、決然と祈りたく願う。
イスラム国を生み出したのは、生活を奪われた憎悪であり、報復という名の復讐は決して留まることがない。
ヨルダンは国王が自ら空爆に参加するという、パフォーマンスじみた報復爆撃を行った。
これに快哉を送る人々は、じつのところ復讐劇の空気に呑み込まれているのだ。
イスラム国の幹部を50人以上殺したというその瓦礫の下には、その数倍、数十倍の人々が人間の盾にされた。
それを考えると、本当に私たちは祈ることしかできないのだろうか、とあせる。
そうだ、祈ることしかできない。否、祈ることだけはできる。それならば私たちは祈ることに力を注ごう。
祈りの群れにふさわしく、この世界のために、平和のために、人々のために祈ろう。
posted by 近 at 20:00 | Comment(0) | その他のメッセージ
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