聖書箇所 出エジプト記35:1-29
1 モーセはイスラエル人の全会衆を集めて彼らに言った。「これは、【主】が行えと命じられたことばである。2 六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目には、【主】の聖なる全き休みの安息を守らなければならない。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。3 安息の日には、あなたがたのどの住まいのどこででも、火をたいてはならない。」
4 モーセはイスラエル人の全会衆に告げて言った。「これは、【主】が命じて仰せられたことである。5 あなたがたの中から【主】への奉納物を受け取りなさい。すべて、心から進んでささげる者に、【主】への奉納物を持って来させなさい。すなわち、金、銀、青銅、6 青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、7 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、8 燈油、そそぎの油とかおりの高い香のための香料、9 エポデや胸当てにはめ込むしまめのうや宝石である。
10 あなたがたのうちの心に知恵のある者は、みな来て、【主】が命じられたものをすべて造らなければならない。11 幕屋、その天幕と、そのおおい、その留め金とその板、その横木、その柱と、その台座、12 箱と、その棒、『贖いのふた』とおおいの垂れ幕、13 机と、その棒とそのすべての用具と供えのパン、14 燈火のための燭台と、その用器とともしび皿と、燈火用の油、15 香の壇と、その棒とそそぎの油とかおりの高い香と幕屋の入口につける入口の垂れ幕、16 全焼のいけにえの祭壇とそれに付属する青銅の格子、その棒とそのすべての用具、洗盤と、その台、17 庭の掛け幕、その柱とその台座と庭の門の垂れ幕、18 幕屋の釘と庭の釘と、そのひも、19 聖所で仕えるための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。」
20 イスラエル人の全会衆は、モーセの前から立ち去った。21 感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、【主】への奉納物を持って来た。22 すべて心から進んでささげる男女は、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を【主】にささげた者はみな、そうした。23 また、青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。24 銀や青銅の奉納物をささげる者はみな、それを【主】への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のすべての仕事のため、それを持って来た。25 また、心に知恵のある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。26 感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。27 上に立つ者たちはエポデと胸当てにはめるしまめのうや宝石を持って来た。28 また、燈火、そそぎの油、かおりの高い香のためのバルサム油とオリーブ油とを持って来た。29 イスラエル人は、男も女もみな、【主】がモーセを通して、こうせよと命じられたすべての仕事のために、心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として【主】に持って来た。
1.
来週の主日の午後、私たちは今年度の教会総会を行います。
教会員の方には総会資料を今日お渡しして、来週までに目を通していただきたいと願いますが、
そこでは今年の教会目標として「心から進んで」という言葉を掲げています。
「心から進んで」。それは今日の聖書箇所にあります、イスラエルの民が神へのささげものを心から進んでささげたというところから取っています。
最初におぼえていただきたいのは、イスラエルの民は、順風満帆な神との関係の果てに、「心から進んで」ささげるという行動へ導かれたのではないということです。じつは彼らにとって、今日の箇所は、思い出したくない悲しみと痛みの直後の出来事でした。
何章にもわたる出来事なので、あえて聖書を開かずに、ことばだけで説明させていただきますが、
イスラエル人は、エジプトでの奴隷状態から助け出された後、神から十戒を与えられて、ただこの方だけを神とするようにと命じられていました。
しかし彼らは、その約束を忘れ、金銀をかき集めて溶かし、金の子牛の像を造りました。
そしてそれをイスラエルの神だと崇めて、勝手に祭りを行いました。
これは、神が与えた十戒に対する明らかな違反でした。神はモーセに対して、この民を滅ぼしてあなたから新しい民を起こすと言われました。
しかしモーセはそこで必死に民をとりなしました。どうか彼らの罪を赦し、見捨てないでください、と。
神はモーセの懇願を受け入れました。しかしその代わり、さばきとして何万人もの民が死ぬことになりました。
これが、今日の聖書箇所の直前に、何章にもわたって描かれている出来事です。
忘れてはならないのは、彼らイスラエルの民が「心から進んで」いけにえを持って来たのは、思い出したくもないような怒り、痛み、悲しみの経験を経てのことであったということです。
彼らの自発的ないけにえは、神様がいつも守ってくださっている、うれしいね、感謝ですね、という単純なものではありません。
自分たちの罪がこれほどまでにおぞましいものであったのに、神は私たちを滅ぼさず、見捨てなかった。
その言葉に言い尽くすことのできない思い。感謝というありきたりな言葉で言い表すことも憚られるような、まさに恵みの中の恵み、
それが「心から進んで」ささげたという行動に表れているのです。
2.
イスラエルと同じように、あらゆる教会も思い出したくないような失敗や、簡単に満たされない欠けを持っています。
しかしイスラエルが赦しの証しとして最初に受け取ったものは、今日の箇所の冒頭にあるように、安息日についての言葉でした。
このわずか3節の安息日規定には、喜びや恵みをイメージさせるような言葉は並んでおりません。
しかしたとえあなたの罪がどれだけおぞましいものであったとしても、神は安息日をあなたがたに与えてくださっている、ということが語られています。
神は決してあなたがたを見捨てない。
あなたがたが神を見捨てない限り、いつもあなたがたは週のはじめには約束のしるしである安息日を受け取ることができる。
それは、礼拝への招きであり、彼らはその感謝がほとばしる中で、心から進んで、ささげものを持って来たのです。
私たち教会の礼拝もまた同じです。そして礼拝のプログラムは、その一つ一つを通して、私たちに語りかけます。
礼拝のはじめには、まず前奏があります。それはただ心を落ち着かせるためのものではありません。
生まれながらの罪ゆえに、神に滅ぼされるはずであった私が、今主の前に立つことができる。その恵みを深く味わい、そして悔い改める時です。
そしてその後に、「招きの言葉」が語られます。子よ、あなたの罪は赦された。あなたは今、罪人ではなく、イエス・キリストのゆえにここに経っているのだ、と神自ら宣言してくださる時です。そしてその恵みへの感謝の表明として、私たち全員が会衆賛美をささげます。
私たちが、この礼拝に加わることがどれほどの恵みであるのかを自覚するときに、私たちは心から進んで神のためにささげるものとなります。
「心から進んで」を標語聖句とするということは、礼拝を大切にするということでもあります。
礼拝を大切にするということは、生活の優先順位において、神を第一とするということです。
3.
イスラエルの民は、モーセの言葉を通して、自分にできることを果たしました。
神とお会いするための場所、幕屋建設の材料として、ある者は金銀を、ある者は糸や動物の皮や毛を、またある者は自分で織った糸や布を持って来ました。
安息日への感謝、礼拝への喜びが、幕屋建設に対するささげものとなったのです。
これは、今日の教会にとっても、大事なことを教えています。すなわち、私たちは教会をどのように見ているだろうか、ということです。
教会が自己実現の場になってはなりません。教会は、礼拝をささげるための場所です。
もし何か礼拝の妨げになっているものがあれば、それを取り除かなければなりません。
あるいは本来の礼拝からは欠けているものがあれば、その欠けを満たしていかなければなりません。
そのために、救われて神のからだの一部となったクリスチャンひとり一人には、御霊の賜物が与えられているのです。
新約聖書にあるパウロの手紙には、神がひとり一人に御霊の賜物を与えて、奉仕のわざへと導くことが何度も繰り返されています。
その中にはかつては必要だったが、今は不要となった奉仕もあります。
一方で、初代教会の時代にははっきりと言及されていないが、今は必要とされている奉仕もあります。
たとえば、現代の教会では、ナーセリーという奉仕があります。日本語では「託児係」と訳されますが、集会中に小さな子どもたちを別室などに預かり、人々が礼拝に思いを集中することができるようにと配慮する奉仕です。
なぜその子たちの親ではなく、あえてナーセリーの奉仕者が必要なのでしょうか。
子どもたちを静かにさせるという責任を親にすべて預けるのではなく、教会全体の課題としていくためです。
そうしなければ、親はいつも引け目を感じながら集会に出席することになるでしょう。
そして教会が、一部の人に引け目を抱かせて、それでも平然としているならば、それは神のからだとは言えなくなってしまうのです。
結.
大切なことは、礼拝を私たちの生活の中心、教会活動の中心とするということです。
そしてそのために、ひとり一人が神様から与えられている賜物を、心から進んで用いていくということです。
奏楽、聖歌隊、受付、録音、掃除、送迎、お花の準備、あらゆる教会の奉仕は、礼拝へと繋がっています。
この中で自分にできることはないだろうか。あるいはそれ以外にも、自分にできることはないだろうか。
ひとり一人がそのように自ら考え、与えられている賜物を用いていくときに、教会はキリストのからだであると宣言することができます。
ひとりとして不要な人はいないし、ひとりとして何もしなくていいという人はいません。それがキリストのからだであるということです。
私たちの教会には、何が欠けているでしょうか。何を改めていくべきでしょうか。
ひとり一人が自分自身の問題として考え、変えていく一年にしようではありませんか。
いま教会から離れている人に何ができるでしょうか。いま教会を休みがちな人に何ができるでしょうか。
そしてこの地域への宣教の架け橋として、それぞれに与えられている賜物を用いていくことも求められています。
教会員の中には、幼児教育に関わってきた方々が多数おられます。
介護の仕事をされている方や、今実際に家族を介護しておられる方もおられます。
その他にも、今までの人生経験の中で培ってきた知識を用いることのできる方もおられます。
「私には何もできない」ではなく、どんなクリスチャンにも、確かに神の賜物が与えられているのだということ。
そして一つとして同じ賜物はなく、みながそれぞれ、取り替えのきかない神のオーダーメイドの器です。
私たちは、「心から進んで」自分をささげていく者となろうではありませんか。
求道中の方々に対して、自分は何ができるだろうか。同じ教会の兄弟姉妹に対して、何ができるだろうか。
そのように自らに問いかけながら、歩んでいきたいと願います。