礼拝説教にもすでに緊張がみなぎっているように思えるのは気のせいでしょうか。週報はこちらです。
聖書箇所 ヨハネの福音書12:23-26
23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
1.
多くの人々は、信仰とは手に入れることであると考えています。
病気の人は健康を手に入れるために。家族とうまく言っていない人は、昔のような微笑ましい家族関係を手に入れるために。
人はどのような悲惨な状況にあっても、自分自身は変えないで自分の周りが変わることを願います。
そしてこれまでの自分にはなるべく手を入れずに、しかし私の人生を変えてほしい。多くの人々にとって、神にすがるのはそういう理由です。
彼らにとって、信仰とは何かを手に入れることです。
しかしイエス・キリストはそのようには語りませんでした。むしろ、まったく正反対のことを言われたのです。
「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」。
信仰とは自分の命を愛し、それを保とうとすることではありません。
むしろ自分の命を憎み、それを捨てること。そうすれば、目的ではなく結果として、いのちを保ち、永遠のいのちに至る、と言われました。
「一粒の麦、地に落ちて死ななければ」。文学作品のタイトルにもなった、有名な言葉です。
2.
先日、イスラム国の捕虜となっていた後藤さんが殺害されたとき、ある評論家がこう言っていました。
「彼の死を一粒の麦としなければならない」。その方は、彼の死を「無駄」にはさせないという思いでそう発言されたのでしょう。
しかし一粒の麦が死ぬとは、文字通り、命を捨てる、あるいは殺されるということだけを意味している言葉ではありません。
私たちがイエス・キリストを信じるということが、私たちにとっては死ぬということなのです。
それは、自分自身に対して死ぬということです。ことあるごとに私たちを内側から突き動かす、自分の欲望、誇り、自我を殺すということです。
聖書はそのような、自分の中にある欲望や自我を肉の思いと呼びます。そしてこの肉の思いがはらむと罪が生まれます。
自分自身に対して死ぬとは、肉の思いがこみ上げてくるのを感じたならば、それをキリストによって殺すということです。
だからこれはキリストを知らなければできません。キリストが私たちのために何をしてくださったかを知らなければ、自分に死ぬことはできません。
では、キリストは何をしてくださったのでしょうか。私のために、命を捨ててくださったのです。
どんなことをしても自分を変えられない、みじめな私のために、私の身代わりとして命を捨ててくださいました。
その愛と犠牲の死を信じるならば、私たちをどんな者であったとしても、古い自分から新しい自分へと生まれ変わらせていただけるのです。
親は、子どもを傷つけたことばを覚えてません。子どもは、親をどれだけ苦しめたのか考えようとしません。
上司と部下、夫と妻、だれもが自分の心からわき起こる肉の思いが、どれだけ他人を汚染し、罪を犯し、犯させているのかがわかりません。
しかしそのような私たちのために、イエス・キリストが命を捨ててくださいました。
生きるとは、死ぬことです。
本当の意味で、この人生を人間らしく生きたいと願うなら、キリストの十字架を見上げながら、古い自分に対して死ななければなりません。
一粒の麦、それは人生を生きながら、肉に対しては死を選ぶ生き方を貫くということです。
3.
イエス・キリストは、ご自分を一粒の麦の種にたとえられました。
種はそれ自体では何の役にも立ちません。地面に落ち、死んでこそ、初めて新たな命を生み出すものとなります。
そしてキリストは、ご自分の血を十字架の上で流されることを通して、私たち罪人にいのちを与えてくださったのです。
昔、アメリカであった話を紹介します。
ある赤ちゃんが大事故に遭い、輸血しなければ助からない状態になりました。このお兄ちゃんは、自分の血をあげることは自分のいのちを与えることだと幼いながらにも理解していたのです。
ところが、赤ちゃんの血液型に合う血液がなかなか見つかりません。
しかし、七歳のお兄ちゃんの血液型だけが赤ちゃんと同じだとわかり、お医者さんはその幼い男の子を膝に乗せてやさしく言いました。
「赤ちゃんにきみの血をあげてくれないかい。そうしないと赤ちゃんは死んじゃうんだ」。
ただ事ではない空気は、七歳の幼い子にも伝わり、男の子は緊張した小さな声で「ぼくの血、赤ちゃんにあげる」と言いました。
お医者さんはにっこりとほほえみました。「ありがとう。赤ちゃんを助けようね。すぐ終わるよ」。そして輸血が始まりました。
輸血が終わったと聞いたとき、そのお兄ちゃんは「ぼく、もうじき死ぬんだね」と言いました。(羽鳥明「これよりも大きな愛はだれも持っていません」、PBA『そこに喜びのあしたが!』、いのちのことば社、2010年、16頁)
イエス・キリストが私たちのために十字架で血を流されたのは、私たちを愛するがゆえにいのちをお捨てになったことなのです。
結.
私たちは、だれのためにいのちを捨てることができるでしょうか。
あるいは今、あなたがいのち以上に大切にしているものはなんでしょうか。
あるとしたら、まことの命をいただくために、それを捨てるべきではないでしょうか。捨てなければ、受けることはできないのです。
イエス・キリストはそれを「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、一つのままです」という言葉で教えてくださったのです。
私たちもまた、一粒の麦のような存在です。小さく、か弱い存在です。
しかし私たちが自分のいのちを守ることではなく、人の命を生かすことを求めていくとき、「豊かな実を結ぶ」とイエスは約束しておられます。
それは決してかんたんな道ではないことは確かです。
捨てることを恐れる私たちであるからこそ、イエス・キリストが十字架で命を捨てる以外に、私たちを生まれ変えさせる方法はありません。
だから私たちは、私たちのためにご自分のいのちを捨てられたイエス・キリストを聖書から探し続けていきましょう。
命を捨てるとは何を指しているのか、そしてそれ以上にまことのいのちの大切さが必ずわかるはずです。
私たちは捨てましょう。自分の罪、欲、誇り、そして私たちをキリストから引き離そうとするありとあらゆるものを。