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2015.3.1「あなたは神のキリストです」

 昨年の秋頃から、地元のミッション系高校の生徒であるA君がずっと礼拝に出席してくださっていました。
県外のミッション系大学に進学するにあたり、キリスト教について学びたいということでしたが、合格も決まり、いよいよ新生活が始まります。
半年にわたって私たちの教会を励ましてくれたA君との別れを惜しみつつ、今日は彼の歓送会。
ややアクの強い(?)教会なので、キリスト教についてちゃんと学べたかどうか・・・・
A君、向こうのオーソドックスな教会で、さらにしっかりと学んでくださいね。週報はこちらです。

聖書箇所 ルカの福音書9:18-27
 18 さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
19 彼らは、答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」
20 イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」
21 するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。
22 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」
23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。
25 人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
26 もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。
27 しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」

1.
 インターネットで「イエス・キリスト」と打ち込んで検索すると、125万件もの記事が見つかります。
しかしその125万件の中で、イエスを罪からの救い主としてはっきり述べているのは、いったいどれくらいでしょうか。
ある人は、イエスは平等な社会を造ろうとした革命者だったと言います。
またある人は、どんな人にも愛を注いだ最高のヒューマニストであったと言います。
多くの人々が、イエスを偉大な人物として評価しています。しかし「私の」救い主であると言う人は、とくにこの日本ではごくわずかです。
そのわずかな人々が私たちだと言いたいところですが、しかしここでもう一度イエス様の問いかけに耳を傾けましょう。
つまり、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」という問いに、あなたはなんと答えるかということです。
「牧師の説教によれば、救い主だそうです」。これでは困ります。
牧師がどう言っている、敬和の先生がどう言っている、ではなくて、「あなたにとって、私は誰なのか」とイエス様は尋ねておられます。
二千年前にそう尋ねられたペテロはこう答えました。「神のキリストです」と。
キリストとは、ギリシャ語で「救い主」を意味する言葉です。ペテロの短い答えは、こういう意味になります。
「世間の人々があなたを誰だと言おうとも、イエス様、私たちにとって、あなたは神の送ってくださった、ただ一人の救い主です」。
私は聖餐式を迎えるたびに、未信者の方々に聖餐を与えることができないことを心苦しく思います。
しかしキリストを告白することなしには、イエスの流してくださった血、引き裂かれた肉の象徴である、パンと葡萄酒を与えることはできません。
しかし「あなたは神の子、ただひとりの救い主です」、この告白をわがものにするとき、どんな人も完全に救われるのです。
このイエスは、二千年前に革命に失敗して死んだヒューマニストではありません。
今も生きておられます。そして信じる者たちといつも共にいてくださるのです。

2.
 現代は、ことばが軽んじられている時代です。政治家たちは、ことばで失敗しても「遺憾である」の一言で幕引きをします。
結婚式にて永遠の誓いをしたはずの男女が、簡単な理由で別れてしまいます。
しかし、イエス・キリストが私にとって誰なのかという告白は、このような時代でも、決して軽んじられてはなりません。
ことばには、責任が伴います。
イエスは神のキリストであるという告白には、ならばあなたは自分の十字架を背負ってわたしについてきなさいという責任が伴うのです。
自分の十字架を背負う、それは決してかっこいい生き方ではありません。むしろこの世のすべての者を敵に回す生き方です。
昨日までは親しかった家族や友人たちから、嘲られ、罵られ、唾を吐きかけられる。それが十字架を背負うという生き方です。
その覚悟ができている者だけが、私についてきなさい、という厳しい言葉です。
私は誰からも愛されたい。十字架は、その道を閉ざします。誰からも必要とされたい。その願いも閉ざされます。
世のすべての人々とよい関係を保ちたい。イエスは「日々、自分の十字架を背負い」と言われています。
まことの弟子となる者の生き方は、一日一日が、この十字架を背負い、世の敵となる生き方であるのです。
 イエスの弟子となることがそんなに厳しい道だとすれば、誰だって尻込みします。
キリスト教とは、もっとソフトなイメージのもののはずではないでしょうか。
私たちが教会を訪れるとき、キリスト教イコール愛と安らぎと考えていたと思います。
しかしイエスの言葉を見る限り、やはり言葉を緩めることはできません。
キリストについていくためには、自分の十字架を背負わなければならないということ。
それはまことのいのちを救うために、あえてかりそめの命を失うことであること。
そして、たとえ私たちが十字架を背負うことを拒み、この世との関係をつないだとしても、
まことのいのちを失ったら、何の得がありましょうかと言われているのです。

3.
 イエスは26節でこう言われます。「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします」。
イエスに従いながら、この世からも賞賛を受けるということはできません。
いま人々の前で恥さらしとなるか、やがて神の前で恥をさらすかのどちらかしかありません。
だからこそ、イエスに従う者には苦しみがあります。十字架を背負って生きる者は、恥を受けます。
しかしイエスの弟子になりたければ、決してそれを恐れてはなりません。すでにキリストが同じ道を歩んでいかれたからです。
人々の嘲りを一身に受け、いばらの冠をかぶり、手足を釘で突き刺され、しかしそれでもイエスは十字架への道から降りようとはしませんでした。
 私は、このイエスが十字架にかかられたのは、私の罪の身代わりとなるためだったことを信じています。
だからこそ、自分のために死んでくださった方のために、与えられた命を生きようと思いました。
キリストが私のために死んだことを恥となさらないように、私もまたキリストのために生きることを恥じないで生きていきたいと願います。
そして私がさらに願うのは、一人でも多くの人々がキリストによって救われたことを恥ではなくて誇りと思ってほしいということです。
この世との関係を気にするあまり、十字架を背負う道に踏み出せないことがあります。
しかし私たちの人生は、イエス・キリストによって買い取られました。すべての責任は、主がとってくださいます。
私たちは、それぞれが背負うべき十字架があります。私にはできない、ということはあり得ません。
すべてイエス・キリストを救い主として信じた者は、まことの弟子として歩むように神様が日々成長させてくださるのです。
この一週間も、それぞれが十字架を背負い、歩み続けることができますように。
posted by 近 at 17:41 | Comment(0) | 2015年のメッセージ
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