最近の記事

2015.3.15「追放よりも解放を」

 私たちの教会では、毎月第3日曜日に、あるキリスト教系の老人福祉施設に慰問に行っています。
ただの慰問じゃありませんよ。牧師のメッセージをプロジェクターでホワイトボードに映して、お年寄りの心をグッとつかみます。
もっとも本当にグッとつかんでいるのは、その後のプレゼント争奪じゃんけん大会のほうですが。
今日は「瀧 廉太郎はクリスチャンで、外国の賛美歌には『荒城の月』のメロディーが使われているものもある」という話をしました。
ところが肝心の、その動画がプロジェクターに映らない。何とか言い訳して事なきを得ましたが、せっかく準備したので、リンクを貼っておきます。
ベルギーのシュヴトーニュ修道院で1986年から歌われている「ケルビム賛歌」です。週報はこちらです。



聖書箇所 ルカの福音書4:31-44
 31 それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。32 人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。33 また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。34 「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」35 イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け」と言われた。するとその悪霊は人々の真ん中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。36 人々はみな驚いて、互いに話し合った。「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」37 こうしてイエスのうわさは、回りの地方の至る所に広まった。
 38 イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。39 イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。
 40 日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。41 また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。
 42 朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
 44 そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。

序.
 新発田で牧会されている、別の教団の牧師先生に聞いたお話です。
あるとき、県外の牧師何人かが新発田のその教会に集まるということがありました。
その先生が車で駅までお迎えに行き、あえて農道を通って教会までお連れしたそうですが、
そのとき、車の窓から外を眺めていた先生たちが、真面目な顔でこう聞いてきたというのです。
「どうして新発田は、田んぼのあちこちに白い袋が投げ捨てられてるの?」
白い袋?ちがいますよ、あれは白鳥です。あっ、ほんとだ。動いている。
驚いた。白鳥というのは、田んぼにもいるのか!空か湖にしかいないと思ってた!

1.
 やはり牧師先生は世間知らずですねえと言われたらそれまでですが、しかし同じようなことは私たちの身近な所でも起こりえます。
聖書を語るとき、あるいは読むときに、自分の勝手なイメージを入れてしまって、かえってゆがめてしまうことがあるのです。
今日の箇所の中で、「汚れた悪霊につかれた人」と聞いて、どのような人を連想するでしょうか。
私は、ここを初めて読んだとき、意味不明なことを叫びながら、自分を抑えられずに、暴力を振るっているような人を思い浮かべました。
そのイメージがどこから来ているかと言えば、同じ福音書の中に、墓場で生活している、やはり悪霊につかれた人が出て来るからです。
 ところが、ここでひとつの疑問が浮かびます。なぜそのような人が、安息日に会堂にいたのか、ということです。
つまり、当時のユダヤ教の礼拝において、そのような人が礼拝者の一人として参加することが許されていたのでしょうか。
旧約聖書を読む限り、そのような人が礼拝に参加できたとは思えません。
そしてそのような人が自分から礼拝に出席しようとすることも考えられないことです。

 では、なぜ汚れた悪霊につかれた人が、会堂にいたのか。ここで私たちは、自分の思い込みを捨てなければなりません。
つまり、ここで言われている、悪霊につかれた人とは、多くの人々がイメージするような、
大声で叫んだり、人間とは思えない力を振るったり、気が触れているとしか思えない、そのような人ではないのです。
むしろ、彼は「普通の」人間として、会堂に集まっていた人でした。
誰から見ても、その人が汚れた霊に支配されているとは思えない、そのような人でした。
しかしその人を誰にも知られずに支配していた汚れた霊は、イエス・キリストの言葉によってあぶり出され、苦悶の叫びを挙げさせたのです。
神のことばは、人の目には触れることもない暗やみさえも、すべて明らかにします。
悪霊どもは、イエスを前にして、その力におびえ、なりふり構わずにその宿主から逃げ出す以外にありませんでした。

 しかし、もし今日の聖書箇所を、求道者ではないノンクリスチャンの方に話すと、まず間違いなく笑われるか、気味悪がられるでしょう。
この21世紀に、悪霊などとは。高熱をしかりつけるといやされた、などとは。あなたがたクリスチャンは、いったい「なに時代」の人たちですか、と。
しかしそのように嘲る人々は気づいていないのです。汚れた悪霊とは、心霊写真に映っているような、おどろおどろしい姿をしていません。
彼らは目に見えません。そして、彼らは普通の人々の中にいます。紳士淑女の中にいます。
休みの日には子供をキャッチボールに誘う父親の中にいます。いつも子供のことを第一に考えているような優しい母親の中にいます。
あらゆる面において、標準的な家庭の中に悪霊はいます。
悪霊とは、私たちを神から引き離し続けるために、うごめている、闇の者たちです。
私たち人間は、生まれながらにしてアダムとエバが犯した罪を引き継いでいますが、
悪霊は私たちが罪と滅びに引き留めるために、みことばと証しに対して心を閉じさせようとします。

2.
前回の説教箇所の中で、イエス様がナザレの人々に語った言葉を覚えておられるでしょうか。
「きっとあなたがたは、カペナウムで行われているようなことをここでもしてくれと言うでしょう」。
この言葉の中にある、「カペナウムで行われていること」、
これこそ、今日の聖書箇所に描かれている、悪霊を追放したり病気をいやしたりするイエスの奇跡です。
ナザレの人々は、それと同じことをここでもしてくれと願いましたが、イエスをそれを拒みました。
なぜでしょうか。それは、イエス様はナザレの人々に奇跡よりもすぐれたものを与えるために来られたからです。
それは何でしょうか。それが、会堂でナザレの人々に特別に語られた聖書のことばでした。

 イエスの言葉によって悪霊が追い出され、イエスの言葉によって病気の人がいやされる。確かにすばらしいことに見えます。
その奇跡を目撃した人々はみな驚き、口々にこう言いました。
「今の言葉はどうだ。権威と力でお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ」。
しかし、イエス様のみこころは別の所にあったのです。
イエス様が地上に来られた目的が、悪霊を追い出し、病をいやすことであったならば、主は十字架にかかる必要はまったくありませんでした。
十字架は、人々に見捨てられ、ぼろぞうきんのように扱われる道です。それは、力と権威と賞賛のまったく反対側にあります。
イエスは、自分を殺そうとしたナザレの人々に特別なメッセージを送られました。
わたしが来たのは、悪霊に追放を命じるためではない。あなたがた罪人に解放を語るために来たのだ、と。
どんなすばらしい奇跡も、決して私たちに直接語られる神のことばに勝ることはありません。
キリストは、悪霊に出て行けと語るためではなく、苦しんでいる人々に福音を語るために来られました。
悪霊にイエスは主であると語らせるために来られたのではなく、救われた私たちにイエスは主であると語らせるために来られたのです。

 確かに神のことばには力があります。悪霊を追い出し、病をいやします。
しかし今日私たちが心に刻むべきことはそこではありません。イエスが、悪霊どもにご自分について語ることをおゆるしにならなかったことです。
主は、彼らの汚れた唇にご自分の御名をゆだねることはしませんでした。
なぜなら、きよめられた唇のみにご自分の名を語ることを願っておられたからです。
きよめられた唇とは何でしょうか。イエスの十字架と復活によって救われた私たちのことです。
イエスの十字架と復活がすべての罪とすべてのさばきからの解放を明らかにした今、私たちに必要なのは人々を驚かせる奇跡ではありません。
私を通して、イエスは主なりと世に向けて語るために、聖書のことばを私たちは必要としています。

 奇跡は、人々の心から悪霊を追い出すことはできます。
しかしからっぽになった心にイエスが入るためには、私たちを通して語られるみことば、そして私たち自身の証しが必要です。
安易に奇跡を求める信仰に逃げ込んではいけません。
むしろ、自分の唇を通してただひたすら地道に語られるみことばを通して、神の栄光が表されること。それが十字架から始まる道です。

結.
 私たちは、朝早くから父なる神に祈りをささげ、そして立ち上がったイエスの言葉を心に刻みつけましょう。
「ほかの町にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」。
私たちも、遣わされていきたいと願います。受難週をあと二週間後に控えながら、十字架にかかられたイエスを語り続けたいと願います。
posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | 2015年のメッセージ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: