
ハロウィンは直接キリスト教とは関係ないので、むしろイースターのほうを出してよ、亀田製菓さん。
と思っていたら、廉価版スイーツの老舗、モンテールさんより、期間限定でこんな商品が。

ちなみに写真のミルクカスタードプリンは「なめらか」、同時発売のカラメルカスタードプリンは「かため」だそうです。
それにしても、クリスマス、ハロウィンに続いてイースターがお菓子業界で市民権を得てきたのは喜ばしいこと。
もうすぐパッケージに「レント(四旬節)」が出てくる日も近いかもしれません。モンテールさん、よろしくお願いします。
聖書そのまま「受難」でもいいです。食べるのが怖いような気もしますが。週報はこちらです。
聖書箇所 マタイの福音書27:45-56
45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
47 すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
48 また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
49 ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。
50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。
54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。
55 そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。
56 その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。
1.
45節、「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた」。
私たちはここから皆既日食のような自然現象を想像すると思います。しかし天が暗くなったのではありません。
この45節を直訳すると、「地のすべてのものの上に、暗闇が現れた」。
この正午から午後三時までの3時間、全世界が暗やみの中で沈黙しました。
鳥はさえずりをとめて、野の獣たちもいななきをやめました。すべての生き物が神の御子の苦しみにただ息をのみました。
御子を十字架に渡された父なる神の痛みに口をつぐみました。
すべての被造物が沈黙するその三時間の中で、もし音が聞こえるとしたら、イエスを十字架につけてののしっている人々の嘲り声だけです。
そして押しつぶされるような三時間の終わりに、イエスは口を開く。そしてこう絶叫しました。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。
イエス・キリストは罪を知らない救い主として来られましたが、決して疲れを知らないスーパーマンだったわけではありません。
その過酷な毎日を支えていたのは、父なる神との親しい交わりでした。
そのためにイエスはどんなに忙しいときでも父との祈りの時を欠かすことがありませんでした。
そのイエスが、いまや神から永遠に引き離される恐怖と絶望の叫び、それが「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。
罪をまったく犯さなかった方が、なぜこのように叫ばなければならなかったのでしょうか。
イエスと父なる神の完全な交わりを引き離してしまうおぞましきものの正体は何でしょうか。
それはみなさんが一番よく知っています。私たちが生まれながらにして背負っている、罪の原理です。
いったい、罪を犯さないで生きた人がいるでしょうか。人が生まれながらにして罪人である以上、それは不可能です。
罪は決して出口のない迷路です。
罪に悩んでいない人がいるとすれば、それは出口を見つけたからではなく、自分が迷路の中にいることを忘れてしまっているのです。
どうやっても抜け出すことができない私たちの罪が、キリストにこの絶望の言葉を叫ばせているのです。
本来私たちが受けるべき神の怒りをキリストが引き受け、受けるべき苦しみをキリストが代わりに受けられました。
ユダヤ人が彼を十字架につけたのではありません。二千年前の人々が彼を十字架につけたのではありません。
私たちの罪が、イエスを十字架につけたのです。
2.
キリストがそこまでして救おうとした人間とはどのような者たちだったのでしょうか。
マタイは、百人隊長や女性たち、多くの人々をここに登場させていますが、真っ先に書かれているのは次の人々です。
47節、「すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った」。
イエスが神に引き離された叫びは、彼らの耳には、預言者エリヤを呼ぶ声にしか聞こえませんでした。
当時のユダヤでは、正しい人が苦しむとき、エリヤが助けてくれるという伝説があったと言います。
彼らは目の前のイエスが正しい人であると認めていたかもしれません。
しかし彼らの興味は、言い伝え通りエリヤが本当に現れるかどうかでした。
彼らはこう言います。「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」。
今目の前で十字架についているのはほかならぬ自分の身代わりであるのに、彼らにはそれがまったくわかりません。
暗やみです。全地を暗やみが覆った三時間が過ぎても、彼らの心はいまだに暗やみに支配されていました。
しかしイエスの生き様をあざ笑い、死に様をおもしろいイベントにしてしまう人々のために、イエスは真っ先に死んでくださったのです。
想像してみてください。全地を覆っていた暗やみが晴れるにつれて、回りの人々の表情が見えてきます。
遠くから悲痛な表情で十字架を見ている女性たち、直立不動の姿勢で十字架のイエスを凝視している百人隊長。
そして十字架の回りでにやにや笑っている人々。私たちはその中のどこにいるでしょうか。
もしかしたら、女たちの中にも、百人隊長の隣でもなく、このキリストの死を興味本位で眺めている人々の中にいるのかもしれません。
だとしたら、じつはここにこそ、救いの本質があるのです。キリストの十字架の贖いは完全です。
イエスに唾をはきかけ、十字架をあざ笑った人たちのためにさえ死んでくださった方は、彼を信じるならばどんな人でも救ってくださるのです。
3.
この世はいまだに闇の中を歩んでいます。しかし十字架はその闇の世の中でも常に光り輝いています。
暗闇の中をただうろうろし続けている私たちに光を与えてくれます。
私たちは、この光を受け取った者であり、そしてこのイエスの十字架を信じる故に、罪を赦された者です。
ですから私たちは、今もしイエスを確かに信じているならば、罪のさばきを恐れる必要はまったくありません。
しかしどうでしょうか。私はこのキリストの十字架の意味を知っている。私のためにイエスは死なれたとずっと前に告白した。
にもかかわらず、なお救われるには足りないかのように、自分の力で歩んではいないだろうか、と自分に問いかけてほしいのです。
キリストがこれほどまでに苦しまれて救いを達成された今、これ以上いったい何が救いのために必要なのでしょうか。
私たちはただ裸のままこの十字架を信じればよいのです。信じた後もただ裸のままこの十字架を慕い続ければよいのです。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。
私たちが叫ばなければならない叫びを、すでに主イエスがしてくださいました。
父なる神からのろわれるという、あまりにも大きな苦しみを通して、イエスは救いの道を開いてくださいました。
そして死して三日目によみがえられたことによって、私たちの救いが完全であることを保証してくださったのです。
ひとり一人が、この十字架の救いを受け取っていきましょう。