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2015.4.19「福音を恥としない」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。今日も暖かい一日でした。
春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、説教の冒頭にいきなり大あくびをかます信徒を発見!
思わず説教も、ちょっと怒ってる?ように見えたら申し訳ありません。
あくびは講壇から見えないように行うことを心がけましょう。週報はこちらです。

聖書箇所 ローマ人への手紙1:16,17
 16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

1.
 去る2月に、新潟のために労してくださった宣教師である、マクダニエル先生が天に召されました。
今その追悼文集を、宣教区で急いでまとめているところです。
先生が新潟に来られたのは戦後すぐのこと、そして新潟を去られてからもう30年くらい経ちます。
だから証しの原稿もそんなに集まらないんじゃないかという予想を裏切り、30から40くらい、私のほうに寄せられています。
ただ今回の作業で大変なのは、その日本語の証しを、奥様に送るために、それぞれを英訳しなければならないということです。
まず原稿を日本語で打ち直し、それをパソコンの翻訳ソフトに流すのですが、これがとんでもない翻訳文になって出てきたりします。
それを今度は人間、つまり私が直していくのですが、大変な反面、たくさんの新しい発見があったりもします。
 「福音」という言葉も、その一つです。英語で福音は「the gospel」。
私たちはゴスペルというとすぐに歌のジャンルを連想するかもしれませんが、もともと「ゴスペル」という言葉は「福音」という意味です。
ただ、パソコンの翻訳ソフトは、「福音」を「Gospel」と訳さないのですね。
では何と訳すかというと、「Good News」、良い知らせと訳すのです。
これは、日本語で福音という言葉が、たとえば「この新しい薬は、難病で苦しむ人々への福音となった」という、少し違う意味で語られることが多いからです。

 しかし、「福音」が「良い知らせ」であるということ、これは私たちに大きなチャレンジを与えます。
私たちは証しをすることを喜びよりは、むしろ重荷に感じてしまうことがあるからです。確かに証しをしなければ福音を伝えることはできない、
でも職場で聖書の話なんかしたら人間関係がまずくなるんじゃないか、そんな恐れを抱くことがあるでしょう。
しかしもしそれが私たちの結論であるとすれば、私たちはすでに敗北しております。
なぜならば、私たちは福音を伝えることを恥としているのではなく、福音そのものを恥としてしまっているからです。
福音は私たちの人間関係を危険にさらしてまで伝える価値はないものであると考えているのです。
つまり私たちが証しに重荷を感じている原因は、周りにクリスチャンがいないとかいう環境のせいではありません。
口べただ、臆病だというような自分の性格のせいでもありません。
私たちが、自分の信じている福音に確信がないから、証しができないのです。

2.
 私たち、ではなく、あえてあなたと問いましょう。あなたは、イエス・キリストを信じていることに心から喜びを持っているでしょうか。
あなたは自分の家族や友人が自分のようなクリスチャンになってもらいたいと心から願っているでしょうか。
もし福音が本当に神の力であるならば、証しを恥じるどころか、伝えたいという内側からの求めを押さえきれないはずです。
しかしそれがないとしたら、どちらかが間違っています。間違っているのは、私たちのほうでしょうか、それとも神のことばのほうでしょうか。

 世の人々は、福音を恐れます。福音は、私たちの人生を変えてしまう唯一の力だからです。
一方、私たちは福音を伝えることを恐れます。福音を伝えることによって、人間関係が変わってしまうかもしれないからです。
どちらも今の生活が変わってしまうことを恐れています。なぜ変わることを恐れるのでしょうか。
それは、自分の心の中に、今の生活は長い時間をかけて自分が積み上げてきたものだと考えているからです。
しかしペテロはこう手紙で書いています。「神にとって、千年は一日のようである」と。
私たちがたとえ何十年かけて築き上げたものであったとしても、それは神からすれば極めてむなしく、一時的なものです。
またバプテスマのヨハネは、「神はこの石ころからでもアブラハムの子孫をつくることがおできになる」と言われました。
神はいつでも、ゼロから一瞬で完成させることのできるお方です。

 少なくとも私たちキリスト者は、変わること、いや、変えられることを恐れてはなりません。
今日教会を後にするときは、来たときの自分とは違う存在であってほしい。
明日床から起きるときは、今朝の自分ともまた違う者であってほしい。1ミリでも神に、恵みに近づいている自分でありたい。
そのために、こう叫びたい。
神よ。私をあなたのしもべとして作り替えてください。あなたの力である福音のことばを通して、私を作り変えてください、と。

3.
 パウロはこの福音を恥としない、と言ったのです。
ユダヤ人のエリートとして育ち、築き上げてきたものをすべて踏みつけてでも、私はこの福音にしがみつくと告白したのです。
福音を恥とせず、キリストを恥としなかった彼は、それによって生じる苦しみも決して恥とはしませんでした。
パウロは宣教者、使徒、教師として福音のために一生をささげました。
ダマスコの途上でイエス・キリストに出会って以来、彼はユダヤ、ギリシャ、ローマと地中海をまたにかけて駆け回りました。
その波乱に満ちた人生を終える場として最後に与えられたのは、孤独な独房であり、地上での報いは殉教による無惨な死でした。
しかしキリストへの信頼ゆえに、彼は最後の最後まで勇気を失わないませんでした。
彼がその生涯で導いてきた人々、彼が建て上げてきた教会、また異端から命がけで守ってきた正しい教え、
彼がイエス・キリストのために守り育んできたものは、決して無駄には終わらない、と。
やがて世の終わりに、地上のすべてのものは焼け落ちるとしても、彼が水を与えてきた伝道の実は最後には必ず実を結ぶ、と信じていました。
それは彼がイエス・キリストとの交わりの中で、この方を本当によく知っていたからです。
キリストがそういう方だと信仰の先輩から聞いた、牧師から聞いた、ということではありません。
福音を心から慕い、味わっていた彼だからこそ、福音の中にはっきりと示されているイエス・キリストを現実の存在として知っていました。
そしてその確信は、死の苦しみをも恥ではなく誇りと変えました。

 私たちの信仰生活の中にも苦しみは多くあります。
実際、もし私たちが福音を恥じず、喜んで証しを伝えようとするとき、そこに待っているのは決して祝福だけではないでしょう。
友人をなくすかもしれません。出世の機会を逃すかもしれません。顧客を失うかもしれません。あるいは人々からあざけられるかもしれません。
しかし福音とはそのようなものと引き替えにするのが惜しいほど、安っぽいものなのでしょうか。
伝えるのも伝えないのもその人の趣味の問題というような、力のないものなのでしょうか。パウロにとっては違いました。
彼にとって死の苦しみと引き替えにしても惜しくないもの、それが福音でした。私たちもその信仰に倣いたいと願うのです。
そのためには神が私たちに与えてくださった福音を日々味わう中で、イエス・キリストがどのようなお方かということを心に刻みつけるのです。
今週もひとり一人が、このイエス・キリストとしっかりと交わり、福音を心から喜び、伝えることができますように。
posted by 近 at 17:00 | Comment(0) | 2015年のメッセージ
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