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2015.5.3「桃太郎から愛を込めて」

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日はゴールデンウィークのただ中で、CSの子どもたちは毎年恒例の、町へお出かけです。
(こう書くと、ものすごく田舎に住んでいるように聞こえますが、一応政令指定都市の住民です)
私ですか?第一週なので、礼拝後はいつものように定例役員会です。
うらやましくなんてありませんとも。ええ、全然うらやましくありません。・・・・ 週報はこちらです。

聖書箇所 ピリピ人への手紙4:1-4
 1 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
 2 ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。
3 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。
 4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

1.
 仲の悪い二人のことを指す、「犬猿の仲」という言葉があります。
これは日本独特の表現のようで、英語では仲の悪い二人は、「like cat and dog」、訳すと「まるで犬と猫のようだ」と言うそうです。
私に近い年代の方は、「トムとジェリー」というアメリカのアニメを思い出すかもしれません。「仲良く喧嘩しな」というフレーズは今もおぼえています。欧米では、仲が悪い二人の象徴は犬と猫、あるいは猫とネズミであり、日本のように「犬と猿」という発想はありません。
なぜ日本では「犬と猿」なのでしょうか。
日本人なら誰もが知っている昔話、「桃太郎」では犬と猿はきびだんごをもらって仲良く同じ家来におさまっていたはずなのですが。
色々調べましたが、納得できる答えはありませんでした。

 今日の聖書箇所には、犬猿の仲とも言うべき、二人の女性の名前が出て来ます。
2節、「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください」。
ユウオデヤは、ギリシャ語で「かぐわしい香り」を意味する名前、そしてスントケは「組み合わせる」を意味する名前です。
日本風の名前にすれば「かおり」さんと「くみこ」さん、この二人がピリピ教会の内部対立の中心にありました。どう見ても名前負けしています。
 しかしパウロは3節で彼女たちについてこう言います。「この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです」。
彼女たちは、ただ教会の中をかき回していた人々ではありませんでした。それぞれはパウロと協力して、宣教に励んでいた婦人でした。
でも一生懸命であればあるほど、教会を支えたいと願えば願うほど、両者の溝が深くなっていったのではないでしょうか。
これは決して二千年前の話にとどまらず、現代の教会までつながるものです。

2.
 パウロは彼女たちに一致を勧めます。
しかし「一致」とは何でしょうか。みなが同じ考えを持ち、同じ方向を向き、同じ方向へ進んでいくことでしょうか。
それは一致ではなく、むしろ全体主義です。
パウロが勧め、聖書が教えている「一致」とは、さまざまな考えがあってもよい、様々な人がいてもよい、様々な目標があってもよい。
けれども私たちは「主にあって」一つなのだ、ということを忘れない、ということです。
教会の中で対立が起きるのは、それだけ一生懸命であるということの裏返しです。関心がなければ、対立も起こらないでしょう。
そして対立が起きたとき、まあまあと穏便に済ますことが最上の解決にはつながらないこともあります。
あるときには、そこで痛みが起こっても、言葉と思いのたけを出し尽くすことが必要なときもあります。

 しかしどんな時も忘れてはならないことは、私たちは、「主にあって」のみ、一つになれるのだということです。
イエス・キリストはかつて弟子たちにこう言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいます」と。
クリスチャンは、決して一匹狼では生きていけません。
教会生活に疲れた、教会での人間関係がわずらわしい、そのような理由で教会生活を捨ててしまう人々がいます。
悲しいことですが、現実です。しかし教会は天国ではない、ということもまた現実です。
地上に置かれた、罪人たちの集まりです。その一員であるがゆえにうける傷や痛みもあります。

 しかし私たちはお互いに主にあってひとつの体なのです。
地上の信仰生活の中で、お互いの命をあずけ、苦しみや痛みも分かち合う戦友、相棒です。
あの人とは気が合わない。いっしょに働きたくない。神さまは、そんなことも初めから知っておられます。
しかしそれを承知の上でその人とあなたを同じひとつのからだである、この豊栄キリスト教会という家族の関係にしてくださいました。
この霊の家族の中で、ひとり一人が訓練され、相手の弱いところを覆うために。自分の弱いところを満たしてもらうために。
お互いに赦し合い、仕え合う神の家族として、私たちをここに導いてくださったのです。

3.
 私は今、マクダニエル先生の追悼文集をまとめているところです。
原稿を寄せてくださった何人もの方が口を揃えて書いているのは、先生がいつもピリピ4の4、ピリピ4の4と叫んでいた、ということでした。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」。
宣教師として、日本で暮らしていくことは言葉に言い尽くせない戦いがあったことでしょう。
しかしダニエル先生の確信は、たとえこの新潟の空がいつも雲で覆われていたとしても、その上には太陽がいつも輝いているということでした。
パウロは、ユウオデヤとスントケの対立についてはっきりと手紙に書きます。しかしそのすぐ後には、「喜びなさい、喜びなさい」と連呼します。
たとえ教会の中にどのような対立があったとしても、私たちは目を天に向ける、それだけで主にあって喜ぶ、喜ぶ、喜ぶ。
パウロがこの二人の対立を書かずにいられなかったのは、ピリピ教会のためではありません。むしろ彼女たち自身を愛するがゆえでした。
「ほんとうに、真の協力者よ。あなたにもお願いします。彼女たちを助けてやってください」。

 私は、まるでこの時のパウロが、年老いた桃太郎が手紙を書いている姿のように見えてなりません。
ユウオデヤとスントケは、パウロ桃太郎の家来の犬と猿。文字通り犬猿の仲の彼女たちが、今教会に痛みをもたらしている。
しかし桃太郎はこう書き送ります。若かりし頃には、私たちはあんなに燃えて、鬼ヶ島へ向かっていったではないか。
ともに背中を預けて、鬼たちと戦った時のあの二人はどこへ行ってしまったのか。あの頃の姉妹愛をもう一度取り戻して、歩んでいこうではないか。行間にそのようなメッセージをしたためながら、パウロが「真の協力者よ」と呼びかけた人物は、いったいピリピ教会の誰だったのでしょうか。
一緒に鬼ヶ島へ行ったキジのような古参の信徒だったのか、それともほかの人だったのか。
おそらく、教会のすべての兄弟姉妹に向けてでありましょう。
陰で彼らを批判しながら、眉を曇らせるだけの消極的な関係で終わらせないで、どうかあなたがたは彼女たちを助けてください、と。
主にある一致を気づかせてあげてください、と。彼女たちもまた、いのちの書に名が記された者たちなのですから、と。
私たちの教会にどんな問題があろうとも、それを解決する鍵は、主にあってお互いに関心を持ち続けるということです。
教会の交わりを破壊するのは対立ではなく、むしろ無関心なのです。
ひとり一人が、お互いを自分自身のようにおぼえながら歩んでいく、そのような喜びの教会として歩んでいきたいと願います。
posted by 近 at 18:11 | Comment(0) | 2015年のメッセージ
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